小早川秀秋・関ヶ原の戦いを決定付けた裏切りとその代償

五七の桐
五七の桐

関ヶ原の合戦で徳川家康に寝返った小早川秀秋。
石田三成ら西軍が関ヶ原の戦いで負ける原因になったといわれることもあります。

裏切り者呼ばわりされることの多い武将ですが。
本来なら豊臣家の次の世代を担う一員になったかもしれない人物です。

どんな武将だったのでしょうか。

 

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小早川秀秋の生い立ち

 

天正10年(1582年)。近江の国・長浜にて木下家定(高台院・お寧の兄)の五男として生まれました。幼名は辰之助。

天正13年(1585年)、羽柴秀吉の養子となり、お寧に育てられます。
子供のいなかった秀吉は親類縁者の子供を引き取ってて育てていました。
辰之助もそのひとりです。

元服して木下秀俊と名のります。後に羽柴秀俊となります。

天正17年(1589年)、丹波亀山10万石の領主となります。このころ豊臣秀俊と改名したと思われます。

「丹波中納言」と呼ばれ、豊臣秀次に継ぐ次世代の豊臣家のNo.2的立場にいました。

 

秀頼誕生・小早川家の養子となる

文禄2年(1593年)。豊臣秀頼が誕生します。
秀頼の誕生が豊臣秀俊の運命を変えてしまいます。

秀俊を、実子のいなかった毛利輝元の養子に出すことになったのです。
しかし、毛利家としては豊臣の血筋の者が後継者になるのは不満でした。毛利家が豊臣家に取り込まれてしまうことを警戒したのです。そこで、毛利家重臣、小早川隆景は弟の息子(嫡男)を毛利輝元の跡継ぎとし、隆俊を小早川家の跡継ぎとすることを提案。秀吉はこれを認めます。

文禄3年(1594年)、秀俊は小早川家の養子となり、小早川秀俊と名のります。
これによって小早川家は中納言の家格となり。本家の毛利家とともに五大老の一画を占めることになります。

文禄4年(1595年)。豊臣秀次が切腹させられます。秀俊も責任を問われ、丹波亀山の領地を没収されます。秀俊は小早川家の本拠地である安芸国三原に移り住みました。また義父の小早川隆景没後は隆景が所有していた筑前国名君30万石を相続しました。
このころ名前を小早川秀秋と改めます。

 

慶長2年(1597年)。朝鮮出兵(慶長の役)では朝鮮に渡りました。主に釜山の城の普請と守備を担当し、最前線の戦いには出ていません。秀吉から命令で帰国します。

秀秋は、越前北の庄15万石への移動となりました。筑前は豊臣家の直轄領となります。
領地が半分になってしまったため、家臣を解雇しなくてはなりませんでした。

慶長3年(1598年)。秀吉が亡くなります。
五大老の知行宛行状が発行され、筑前国名君30万石に戻りました。

 

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関ヶ原の戦い

石田三成と徳川家康が対立し。遂に三成は挙兵しました。
家康側についた黒田長政らから調略を受けました。
三成からも秀頼が成人するまでの関白職を任せるという条件で引き止め工作が行われました。

慶長5年(1600年)。西軍の一員として伏見城の戦いに出陣します。
関ヶ原の戦いでは1万5000戦の兵を出し。西軍の一員として参戦しました。
関ヶ原南西部の松尾山に布陣します。
秀秋は戦が始まっても動きません。

秀秋が動かないことに腹を立てた徳川家康から何度か催促があったとか。一説では鉄砲を撃ったともいわれますが。それは作り話です。寝返りは秀秋本人の判断でした。

結局、小早川秀秋は松尾山を降り、西軍の大谷吉継の軍に襲い掛かります。

最初は大谷吉継ももちこたえましたが、秀秋の寝返りに続いて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らが連鎖的に寝返り。大谷軍は壊滅しました。

それまで東西拮抗していた戦いは、秀秋が動いたことによって大きく東軍優勢に傾きます。その日の夕刻には西軍は壊滅しました。

翌日、秀秋は石田三成の居城・佐和山城の攻撃に参加しました。

次世代の豊臣家のホープとされながらも、秀頼の誕生で小早川家に養子に出され。
豊臣家の中枢からは外れてしまいました。五大老という身分でしたが豊臣家の一員ではなく家臣の立場になってしまいます。
そんなとき黒田長政ら、共に高台院に育てられたものたちから誘いを受けて心が動いたとしても不思議ではありません。

 

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関ヶ原のあと

秀秋は備前、美作、備中にまたがる、宇喜多家の領地を獲得しました。
岡山藩55万石の大名となります。
このころ名を小早川秀詮と改めます。
しかし、秀秋の側近と古くから小早川家に仕える家臣との不仲が目立つようになり、古くからの重臣・稲葉正成が出て行ってしまます。

関ヶ原の戦いから2年後。慶長7年(1602年)。亡くなります。21歳の若さでした。
死因はアルコールによる内臓疾患だといわれています。
秀秋は10代から飲酒壁があり養母の高台院を悩ませていました。

当時から裏切り者として秀秋の評判はよくなかったとも言います。
さらに家中の対立。
もともとの酒好きが、さらにアルコールに依存する生活になってしまい体調をくずしたのかもしれません。

小早川家は秀秋の死後断絶しました。

 

コメント

  1. コウイチ より:

    文也様。お久しぶりです。今日、映画で関ヶ原を見てきました。感想は人、それぞれだと思いますが、私は面白かったと思います。今までも大河ドラマ内でも関ヶ原の合戦はありましたが、この作品は良かったと思います。文也様にも是非みて頂き、解説や感想を聞かせて頂ければと思います。

    • 文也 より:

      コウイチさんこんにちは。以前から気にはなってたのですがようやく観てきました。原作と違う点がありますが面白かったですね。映画だと戦のスケールが大きく見ごたえがありますね。

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