牧野 富太郎・草花の研究に生涯を捧げた植物学者とは

牧野 富太郎(まきのとみたろう)は日本の植物学者。

「日本の植物学の父」とよばれ欧米に比べて100年は遅れているといわれた植物学を世界に近づけるよう努力した人のひとりです。

日本人で始めて植物の学名を付け、1500の新種に名前を付けました。

自身を植物の精と呼び、熱心に日本各地を歩き回り植物を集め40万ともいわれる標本を残しました。

非常に緻密な絵を描いたこともでも有名で、牧野 富太郎が発行した書籍や図鑑には彼自身が描いた挿絵が載せられています。

その一方で金銭感覚にだらしなく家の資産を研究に使い切ってしまい。借金におわれる生活でした。妻・寿衛や子どもたちの支えがあって研究生活ができたのでした。

苦境になる度に支援者が現れたのも不思議な魅力です。

牧野 富太郎とはどんな人だったのでしょうか。

 

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牧野 富太郎 とは

名 前:牧野 富太郎(まきの とみたろう)
幼名:成太郎
生 年:1862年5月22日(文久2年4月24日)
没 年:1957年1月18日
享 年:94歳
父:牧野 佐平(さへい)
母:牧野 久寿(くす)

妻・寿衛
子:13子。そのうち6人は早世。成長したのは3男4女

土佐(高知)の裕福な酒屋の息子として生まれる

文久2年4月24日(1862年5月22日)
土佐国佐川村(現在の 高知県高岡郡佐川町)で誕生。

父は酒造業を営む牧野 佐平
母は久寿。

生家は土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で「佐川の岸屋」と呼ばれた商家。雑貨業と酒造業を営む裕福な家でした。

生まれた時の名前は成太郎(せいたろう)。

次々と家族が他界

慶応元年(1865年)3歳。父 左平が病死。
慶応3年(1867年)5歳。母 久寿が病死。
慶応4年(1868年)6歳。祖父 小左衛門が病死。

このあと富太郎(とみたろう)に改名。

その後は祖母 浪子に育てられました。

学問に目覚める

明治5年(1872年)10歳。土居謙護の寺子屋に通いました。富太郎は漢字をすぐに覚え、ます。学問が好きなった富太郎は。

明治6年(1873年)11歳。儒学者 伊藤蘭林のもとで漢学を学びました。当時は江戸時代の身分制度がまだ残り、学問をするのが士族が中心でした。塾でも士族が偉いとされていました。でも富太郎の優秀さは士族にも認められます。

伊藤蘭林の勧めで名教館(めいこうかん)に入学。名教館は土佐藩の重臣深尾氏が作った私学校。現在の高校や大学レベルの学問を教えていました。和漢学、英語、オランダ語、物理学、生理学(生物の仕組みや機能を研究する学問)、植物学を学びました。とくに興味を持ったのが地理や自然のことです。

佐川の町にあった英語会にも入り英語やヨーロッパの文明を学びました。

明治7年(1874年)12歳。明治政府の学制改革によって各地に学校が作られました。名教館は廃校になりましたが、名教館の校舎は小学校になりました。

ところがすでに私塾で西洋の学問を学んだ富太郎には小学校の授業は退屈で仕方ありません。2年で小学校を退学。好きな植物の研究などをしてをして過ごしました。

15歳。佐川小学校授業生(臨時教員)になりました。このころ植物だけでなく昆虫にも興味をもち採集しました。しかし子どもたちに学問を教えている間に自分はもっと学問がしたくなりました。

17歳。臨時教員を辞めて高知の引田正五の五松学者に入塾。コレラが流行り佐川に戻りました。

明治13年(1880年)。高知市の師範学校の教師 永沼小一郎と出会い。欧米の植物学を知り、日本でも植物を学術的に分類することの必要性を感じ、自分の進む道を見つけました。永沼小一郎は富太郎にとって大きな影響を与えました。

友人とともに西日本の最高峰・石鎚山に登りました。着物姿での1900m級の山への登山は危険を伴いましたが。雨でずぶ濡れになりながらも山に登り植物採集しました。

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東京に出て植物の研究をする

初めての上京

明治14年(1881年)19歳。第2回内国勧業博覧会見物、書籍や顕微鏡購入のため番頭の息子と会計係の2人ともに上京。

文部省博物局の田中芳男(たなか よしお)と小野職愨(おの もとよし)を訪ね最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりしました。自分が選んだ道は間違っていないと確信しました。

当時、板垣退助の地元の土佐では自由民権運動が活発でした。富太郎は土佐に戻ると自由党に入り自由民権運動にも関わります。でも自分がしたいのはやはり植物学ということで自由党を脱退しました。

2度めの上京で研究活動に没頭

明治17年(1884年)22歳。富太郎は実家の酒屋を継ぐことが期待されていましたが。それでも植物学を選びました。富太郎は祖母の浪子と相談。祖母は落胆しましたが東京行きを認められ、再び東京に向かいました。

牧野は帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉(やたべ りょうきち)教授、助教授の松村任三(まつむらじんぞう)に会いました。日本の植物の目録を作り新種なら日本語の学名もつけたいと夢を語り、矢田部も賛成しました。矢田部の教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭します。

このころ多くの研究者仲間と知り合いました。東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチもその一人です。

傾く実家

家業の岸屋は番頭が切り盛りしていましたが。牧野は経営には一切関わらず、研究に没頭していました。しかも研究に必要な費用を実家の蓄えから持ち出していました。当時は専門書や器具はとても高価。旅費にもお金がかかります。さすがの岸屋も経営が傾きかけていました。でも富太郎に甘い祖母は孫のためにお金を出してしまいます。

「植物学雑誌」を創刊

牧野はできたばかりの植物学会に所属。植物学を発展させるため、世界に日本の植物の情報を発信するための雑誌が必要だと考え。矢田部良吉に相談。植物学会で作ることにしました。

牧野は雑誌や書籍に載せる挿絵にもこだわり、自分で石版印刷屋に弟子入りして印刷技術を習いました。

明治20年(1887年)25歳。研究仲間の大久保三郎・田中延次郎・染谷徳五郎・三好学・澤田駒次郎・白井光太郎たちとともに「植物学雑誌」を創刊しました。

ところがその直後。祖母 浪子が死去。
いよいよ実家を継ぐことが迫られましたがそれでも富太郎は植物の研究を選びました。

植物研究に打ち込む

明治21年(1888年)26歳。以前から発行したいと燃えていた「日本植物志図篇」を自費出版。日本の植物を集めた植物図鑑のようなもの。イラストをふんだんに使った当時の日本にはない画期的なものでした。富太郎の描いた精巧な図は人々を驚かせました。日本日本初の研究者仲間や海外のマキシモヴィッチ教授からも絶賛されました。

明治21年(1888年)26歳。小澤壽江と東京根岸で暮らし始めました。

明治22年(1889年)27歳。東京の小岩で新種の植物を発見。「植物学雑誌」に発表。植物の名は「セリゴヌム・ヤポニクム」和名は「ヤマトグサ」です。

世界中の研究者が混乱しないように動植物にはラテン語で世界共通の名前が付けられます。それが「学名」です。

牧野富太郎は日本で始めて学名を付けた人物になりました。

明治23年(1890年)28歳。のときに東京の小岩で、ムジナモを発見。

分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。

矢田部教授から出入り禁止

ところが矢田部教授・松村任三教授たちから植物学教室の出入りを禁止されてしまいます。

牧野富太郎はどこの大学にも所属しないフリーの研究者です。矢田部良吉も富太郎たちが作った「植物学雑誌」のような学術雑誌を作ろうとしていました。権威ある大学が作った学術誌がフリーの研究者の作った雑誌とたいして変わらないでは大学のメンツが経ちません。また富太郎自身も資料を借りてなかなか返さしません。大学が国の予算を使って集めた標本や資料を好き勝手に使われてはたまらないという想いもありました。

そういったことが重なって出入り禁止になりました。「日本植物志図篇」の刊行も六巻で中断してしまいます。牧野はマキシモヴィッチを頼ろうとしましたが、1891年にマキシモヴィッチが死去したので実現しませんでした。

高知に帰り店を手放す

明治24年(1891年)。いつものように実家の岸屋に資金を催促すると、経営を任せている番頭の井上和之介から「送れるお金はもうない」と言われます。牧野は高知に戻り経営状況を聞きました。牧野は予想以上に経営が悪化していることを知りました。

牧野は経営を悪化させたことを謝罪。岸屋の経営権を井上和之介に譲渡。岸屋の財産整理をしました。「日本植物志図篇」の発行も諦めました。

ところが高知日報の記者から音楽の普及が遅れていると聞かされ。教師だったこともある牧野は高知で高知西洋音楽会を設立して指導。演奏会を開きました。しかしこれで残っていた財産を使い切ってしまいます。

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東大時代

ところが東京では矢田部良吉教授が退任。松村任三が植物学教室のトップになりました。牧野はその松村任三から呼び戻されます。

明治26年(1893年)。東京帝国大学理科大学の植物学教室の助手になりました。月収は15円。消費者物価で計算すると現在の10万円ほど。とても家族を養える給料ではありません。というのもこのときの助手は学校を出たばかりの人がなるような仕事なので給料は低いのです。

岩崎弥之助に借金を肩代わりしてもらう

牧野には給料が出るようになったのですが。大勢の子供がいるのにもかかわらず牧野は書籍や機材の購入などの研究に必要な物はドンドン購入してしまい、月収が15円の時代に2000円(1300万円ほど)の借金をつくってしまいます。

ついには家賃が払えくなり家財が競売に出されてしまいます。このときは土佐出身の田中光顕(たなかみつあき)の紹介で三菱の岩崎弥之助(いわさき やのすけ)から資金提供をうけて借金を肩代わりしてもらったこともありました。弥之助は三菱の創業者・岩崎弥太郎(いわさき やたろう)の弟です。

大学での研究

その後、生活に困っていた牧野を気の毒に思った土方寧(ひじかた やすし)が浜尾総長に相談。牧野は「大日本植物誌」出版を任されることになりました。そうすれば特別に手当が出るというのです。

ところが「大日本植物誌」は矢田部良吉が出すはずのものだったの。松村任三は面白くありません。松村任三から事細かく注文を付けられたり嫌がらせをうけ4巻で終わりました。

牧野富太郎は小学校中退で学歴がなく、大学の権威やメンツを考えません。そうしたこともあり松村任三たち大学関係者との関係は悪化。

さらに牧野の出費癖は治らず生活に困り借金の取り立てに追われたり、引っ越しを繰り返しました。

明治42年(1909年)。新しく学長になった桜井錠ニは松村任三の言うことを信じて牧野富太郎を解雇しました。

同僚や知人の反対で桜井錠ニは牧野を講師として採用。給料は30円(講義した授業の数で報酬が違うので実際にはばらつきがあります)になりました。当時の講師としては恵まれているとは言え。当時の講師は1年単位の契約。現在の非常勤講師に近い待遇です。もちろん教授・助教授よりは遥かに恵まれていませんし。当時のサラリーマンよりも収入は少ないです。

池長孟の援助

しかしそれでも牧野家の生活は良くなりません。ついに牧野は標本を売って借金返済にあてようとしました。

農学士で新聞記者の渡辺忠吾が大阪朝日新聞に牧野富太郎の現状を訴える記事を書いたところ、資産家の池長孟が援助を申し出ました。池長は牧野の標本30万枚を2~3万円で買い取りました。

さらに牧野のために植物研究所を設立。池長孟は「牧野植物研究所」にするつもりだったようですが、牧野の提案で「池長植物研究所」となり標本はそこに展示されることになりました。

ところが池長孟の母しまは金銭感覚の悪い牧野を嫌いました。

牧野の標本は膨大なために「池長植物研究所」ですべて展示できず倉庫に保管されていました。牧野自身も多忙のため「池長植物研究所」にあまり来ることができず標本の整理はあまり進んでいませんでした。そこで池長孟は独断で標本を京都大学に寄贈して整理してもらおうとします。牧野の反対で寄贈の話はなくなりましたが。二人の関係は悪化していきます。

その後。牧野を援助したのが中村春二でした。中村春二の援助で牧野は「植物研究雑誌」を発行しました。

大正12年(1923年)の関東大震災で本が燃えてしまい。翌年には中村春二が死亡。援助が断たれました。

大正15年(1926年)。津村順天堂の協力で「植物研究雑誌」を発行しました。

1927年4月(昭和2年)65歳。東京帝国大学から理学博士号を受けました。

昭和3年(1928年2月)。苦しい生活を支えてきた牧野富太郎の妻・寿衛が亡くなりました。寿衛の生前に採取していた笹に新種があったので「スエコグサ(学名:ササ・スエコヤナ)と命名しました。

その後も牧野は植物の採取と研究に打ち込みました。

昭和9年(1934年)。「牧野植物学習」を発行。

昭和12年(1937年)。朝日文化賞を受賞。

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晩年の活動

昭和15年(1940年)78歳。東京帝国大学を退官後。
研究の集大成といえる「牧野日本植物図鑑」を刊行。この図鑑は現在でも発売されています。

昭和16年(1941年)。「池長植物研究所」においてあった標本が牧野のもとに戻ってきました。富太郎の自宅に華道家の安達潮花が立てた建物に保管されました。

昭和20年(1945年)。戦争激化のため山梨に疎開。終戦の2ヶ月後自宅に戻りました。

昭和24年(1949年)87歳。大腸炎で自宅で倒れ意識が戻りません。そして医者が脈を取るのを諦め死亡宣告。ところが家族が末期の水を与えようとすると富太郎が水を飲みました。富太郎は回復して歩き回れるようになりました。

昭和26年(1951年)。自宅にある植物標本約50万点を整理するため、朝比奈泰彦たちが中心になり文部省に働きかけて「牧野博士標本保存委員会」を設置。以後、標本の整理が行われました。

第1回文化功労者の対象者になりました。

昭和29年(1954年)ごろから病気がちになり。昭和31年ごろには寝たきりになってしまいました。

病状を知った各地の人々からお見舞いや手紙が届き。昭和天皇からのお見舞いも届きました。牧野は非常に喜びました。

昭和32年(1957年)。牧野富太郎が死去。享年94歳。

その翌年。東京都立大学に牧野標本館が完成。整理が続けられていた数十万点の標本が収められました。

牧野富太郎の生まれた5月22日は「植物学の日」とされています。

ドラマ

らんまん 2023年、NHK 演:神木隆之介 役名:槙野万太郎

 

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