織田信長配下の武将で暴れ者といえば森長可(もり ながよし)
織田信長には贔屓にされ個性的なエピソードも多い長可。でも「鬼武蔵」とあだ名されるほど過激すぎるその内容と歴史の表舞台とははずれたところで暴れていたせいであまり知られていません。
大河ドラマ「真田丸」をはじめドラマにも登場しますが、あまりにも過激なため出番はあまりありません。テレビでは放送できないエピソードも含めて森長可の生涯を紹介します。
織田信長と森家とのかかわり
森長可は永禄元年(1558年)、森可成(もり よしなり)の次男として生まれます。通称は勝蔵。
森可成は美濃国土岐家の家臣でした。土岐家が斉藤道三に滅ぼされると織田家に仕えるようになりました。織田信長の家督相続に協力しますが、元亀元年(1572年)浅井・朝倉との戦いで撤退する信長を助け討死。あとを継いだ嫡男・可隆も年内に朝倉との戦いで討死しました。
信長は自分を逃がすために死んだ森可成に恩を感じてその子供達は手厚くあつかいます。
森家はわずか13歳の長可があとを継ぐことになりました。長の字は信長よりもらったものです。
長可の弟は「森 蘭丸」こと「森 成利」。信長の小姓として召抱えられ、側近となります。
元亀4年(1559年)森家を継いだ長可に初陣がおとずれます。
伊勢国、一向一揆の鎮圧に参加します。
「人間無骨」という名前の槍を愛用しました。「この槍にかかれば人間の骨も無いも同じ」という意味です。二代目和泉守兼定という名工の作なので鋭くて優れた槍なのは確かだったでしょう。
百段という名馬を愛用していました。百段とは百段の石段をも駆け上がることができるという意味がこめられています。
元亀4年(1573年)第三次長島一向一揆では、例の「人間無骨」を使って27人の首を取るという手柄をたてます。
その後も織田信長の息子・信忠のもとで数々の戦に出陣します。血気盛んな長可は家臣を置き去りにして先に突撃するという無茶な行動をとることもありました。
他の織田家臣の奉公人にたいしてささいなことで怒り出し暴力を働いたり、織田家の同僚に対しても暴言を吐いてトラブルになることもありました。現代なら瞬間湯沸かし器といわれそうな怒りっぽさでした。しかも筋骨粒々で力も強いので周囲からは要注意人物扱いされる始末でした。
琵琶湖から流れる川に橋があります。瀬田の橋です。瀬田に織田信長の命令で関所が作られまこの関所を通るときには大名も馬を下りることになっていました。
でも長可は「急いでいるから」という理由でそれを無視。止めようとする門番を切り捨てます。他の門番に対しても止めるなら焼き討ちすると暴言。そのまま通ってしまいました。
後日、長可はそれを信長に話しました。でも信長は罰するどころか、笑って「武蔵坊弁慶は五条橋で人を切った。これからはお前も武蔵と名乗ったらいい」というありさまでした。それ以来、長可は「武蔵」と名乗るようになりました。
戦に出るとたびたび命令違反もありました。でも信長からは口頭か手紙で注意を受けるだけ。重い処分はありませんでした。
信長は長可には非常に甘かったのです。長可も同僚に対しては乱暴な振る舞いが度々ありましたが信長の前では神妙にしていたようです。
その一方で、ただの暴れ者ではない領主としての一面もありました。領地の美濃国金山では港や城下町を整備し、市をひらき商業を発展させました。信長を手本としたようです。
森長可の甲州征伐
天正10年(1582年)。武田勝頼を討つため織田軍が出撃します。長可はその先方として出陣。木曽から信濃国へ進軍しました。
すでに戦う意欲の乏しい武田方の城を次々と攻略。高遠城まで到着しました。しかし高遠城を守る仁科盛信は逃げません。徹底抗戦を選択します。
信長も「高遠城攻略は慎重にすべき」と陣を築かせ「信忠軍の到着を待つように」と命令しました。でも長可はその命令も無視。勝手に攻撃を始めます。
さすがに仁科盛信の守る高遠城はそう簡単には落ちません。信忠率いる本隊が到着して総攻撃が始まります。
可成は本隊とは別行動をとり、城に取り付いて屋根にあけた穴から中へ向けて一斉に鉄砲を撃ちます。女子供かまわず無差別に攻撃したといいます。部屋のものを殺害したあとは、城から見える守備兵をめがけて打ちます。さらに槍を手に城内でも大暴れ。高遠城攻略に貢献しました。
あまりにも激しい戦いをしたために長可の下半身は返り血に染まっていたといいます。それを見て驚いた信忠は長可が負傷しているのかと思ったほどです。
さすがに命令を無視しての大暴れに信長から手紙で注意を受けます。でも、武田氏滅亡後に北信濃20万石の大名に大出世します。織田家中でも20代で20万石の大名はトップの大出世。美濃国金山(岐阜県可児市兼山)の5万石の領地は弟の森成利(蘭丸)が引き継ぎました。
信濃時代の長可
天正10年4月(1582年)、長可は海津城(長野県長野市松代町)を居城にします。武田家亡き後の信濃は荒れていました。領主達に対して今までどおり領地を治めてよいと命令を出しますが、各地で抵抗する者が続出します。
芋川一揆
森長可の領地で最大級の反乱が芋川一揆と呼ばれる反乱です。
旧武田家臣・芋川親正は長可の支配を受け入れませんでした。信濃の一向宗や地侍らに呼びかけ8000人の反織田勢力をかき集めました。空き家になっていた大倉城を占領し本拠地にします。さらに長沼城主・島津忠直と協力して反乱を起こします。芋川勢は織田に従っていた稲葉貞通のいる飯山城を包囲しました。
ところが長可は直ちに稲葉重通の軍を派遣するともに、信濃にとどまっていた織田信忠に増援を要請します。信忠は団忠正を援軍としてよこしました。稲葉勢と忠正の部隊で大倉城を包囲している芋川勢を内と外から攻撃。芋川勢は退却しました。
長可は島津忠直の長沼城を攻撃します。わずか2日で長沼城を落します。島津忠直は上杉を頼って逃亡しました。さらに移動中の芋川勢を襲撃すると壊滅させ、大倉城も攻撃。城に残る者も多くが死亡しました。
芋川親正の率いる反織田軍は4000名近くが討ち取られました。芋川勢は数は多いものの農民やその家族も参加しての一揆でした。戦闘経験豊富で逆らうものには容赦のない森長可軍にはとてもかないません。反乱に失敗した芋川親正は上杉をたよって落ち延びます。
この一揆のあと、長可は信濃の領主や一揆に参加したと思われる村の住人からも人質をとります。
その後は北信濃を治めることに意欲的にとりくんだので北信濃は一応は安定しました。
魚津城に入ってわずか一ヶ月で信濃国は安定し。長可は次の戦に出かけることにします。滝川一益が穏やかに上野国をまとめようとしていたのとは対照的でした。もっとも、関東全体を管理しないといけない一益と、北信濃だけをみていればいい長可では立場が違うのは確かです。
越後攻め
天正10年5月(1582年)。柴田勝家が上杉領の魚津城(富山県魚津市)に侵攻。上杉景勝が魚津城の救援にでたという連絡が入りました。長可は手薄になった上杉領を攻めようと出陣します。
越後の国境を突破し、田切城(新潟県妙高市)を落します。このとき上杉に逃げていた芋川親正も上杉勢の一員として戦いましたが、またしても森長可に負けました。
更に二本木(新潟県上越市)を攻め落とし、上杉の居城、春日山城(新潟県上越市)まであと20kmというところまで迫ります。
上杉景勝は春日山が危ないことを知り、魚津城の救援をあきらめ春日山城に引き返しました。そのせいで魚津城は柴田勝家に占領されました。
信濃脱出
ところが、6月2日。本能寺の変が起こります。
6月8日に知らせを聞いた長可は明智光秀を討つためにすぐに海津城に戻ります。ここぞとばかりに抑えつけられていた信濃衆が一斉に反乱を起こしました。森長可の味方をするのは出浦盛清だけでした。
そこで海津城にいた人質をつれたまま美濃に戻ることにしました。信濃国衆は人質をとられているので道を塞ぐのが精一杯でした。長可は人質をとったまま戦いをしかけて信濃衆の妨害を実力で排除します。
人質は松本で解放すると約束しましたが、松本まで来ると人質を皆殺しにしました。すんなり信濃を脱出させてくれなかったのが気に入らなかったようです。その後は木曽領へと逃亡しました。このとき最後まで付き従った出浦盛清に感謝し脇差を贈りました。
大河ドラマ「真田丸」では森長可の酷いシーンは放送されません。できませんよね。
しかし長可の元に木曾義昌が森長可の暗殺を計画しているという密告がありました。そこで木曾義昌に到着日を連絡します。その到着日の前日の深夜に押しかけ、城門を破壊し城内に侵入。木曾義昌の息子・岩松丸を人質にとりました。
翌朝、岩松丸を人質にとったまま美濃に戻りました。岩松丸を解放したのは森家の居城・金山城に近い大井宿(岐阜県恵那市)にはいってからです。森長可は激しく戦うだけの武将でなく知恵も働きました。
木曽義昌はあっさりと長可に城内侵入を許し息子を人質に取られる大失態。でも、このときの教訓が滝川一益が木曽領を通るときの人質要求に繋がったのかもしれません。そのせいで滝川一益の清須到着がさらに遅れることになったのです。
参照記事:滝川一益・織田家最高のNo.2
美濃に帰った森長可
6月24日、森長可は美濃に戻りました。
長可は岐阜城に行き織田信雄、信孝、三法師に挨拶しました。すでに秀吉によって明智光秀が討たれていました。
美濃の金山城に戻った森長可でしたが、弟の森成利(蘭丸)は本能寺で亡くなっていました。日ごろの行いが悪いせいか家臣には裏切りが出るし、周囲の領主も敵だらけになっていました。
しかし、敵対する者を次々と撃破。羽柴秀吉と柴田勝家の争いにも加わらず、ひたすら勢力拡大に励みます。中には昌幸も顔負けのだまし討ちもありますが、とにかく翌年天正11年5月(1583)には東美濃から敵対勢力を一掃することに成功しました。信長の死から1年弱で美濃の森家の領地を回復し東美濃を治めるまでに成長しました。
その後、柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉と織田信雄が対立すると、岳父(妻の父)・池田恒興とともに羽柴秀吉に味方します。
長可の最後、小牧・長久手の戦い
天正12年3月(1584年)。羽柴秀吉と徳川家康が小牧・長久手で激突。森長可も秀吉側で出陣しました。しかし、小牧の戦いでは徳川軍に敗退。
長久手の戦いではいつもの様に?勝手に出陣したのですが、先行しすぎて孤立した森軍は井伊直政の部隊と激突。愛馬・百段がぬかるみにはまって動けなくなったところを、水野勝成の鉄砲隊によって射殺されました。
しかし「こんなに前に出て戦ってる者が大将のはずはないだろう」と思われて長可の亡骸は首をとられず、鼻と脇差をとられただけでした。というのも、徳川方では急いでいるので敵兵を討ち取っても首を持ち帰らなくてよいという命令が出ていました。討ち取った数を確認するため鼻を持ち帰りました。その後、運よく味方に発見され首は敵に取られずにすみました。
秀吉も驚く遺言状
戦いのあと、森長可の遺言状が秀吉のもとに届けられました。
秀吉軍を指揮していた重臣の一人、尾藤知宣宛にに書き残していたのです。
それがかなり異様な内容でなので秀吉も困ったそうです。
歴史学者のあいだでも森長可は精神状態に異常がおきていたのではないかという人もいます。
一部を現代語訳します。
「母は秀吉様に面倒見てもらってください。弟の仙千代はそのまま秀吉様のそばで仕えさせてください」
「金山は重要なところだけど、我々が継ぐのは嫌です。秀吉様に確かな人を選んでもらってください」
「十万に一つ、百万に一つ、負けることはないと思うけど。もし負けたら、みんなで火をかけて死ぬように」
結局、秀吉は長可の遺言を無視。金山は仙千代(森忠政)に継がせ、森家を残しました。もちろん森家の家臣も長可のあとを追って焼身自殺することはありませんでした。
森家を継いだ森忠政は真田家と敵対することになるのですが、それはまた後のお話です。
「娘は武家には嫁がせずに医者に嫁がせるように」との遺言もありました。
さんざん暴れまわった長可ですが、娘には戦いとは違う人の命を助ける世界で生きて欲しかったようです。
でも、この遺言も守られずに、娘は武家に嫁ぎました。
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