井伊直虎は男だった?その真相と次郎法師の関係とは

丸に橘

NHK大河ドラマの主人公になったことで一躍有名になった「井伊直虎」。女でありながら「直虎」という勇ましい名前で城主だったという人物です。大河ドラマになるまでにもゲームに出たり歴史番組で取り上げられたり小説になったり。一部の歴史ファンの間では知られた存在でした。

でも大河ドラマになるかならないかでは一般の人への知名度が全然違います。急激に広まった井伊直虎の名前。ところが大河ドラマ放送直前の2016年12月、衝撃的なニュースが飛び込んできました。それは

井伊直虎は男だった」というもの。

なにしろ大河ドラマ放送直前で盛り上がりつつあった時だけに大きなニュースになりました。「大河ドラマは嘘の話をやるのか?」新聞や雑誌もこぞって取り上げました。

そもそも井伊直虎とは謎の多い人物です。

井伊直虎が男?
本当に?
いったいどうしてなのでしょうか?

その真相について探ってみました。

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井伊直虎 男説の出どころ

新聞報道(読売新聞、2016年12月15日朝刊)によると井伊直虎男説の根拠は次のようになります。

2016年12月14日。井伊美術館(京都市左京区)の井伊達夫館長が「直虎は今川家よりの男だった、とする資料がみつかった」と発表しました。

問題の資料は井伊家の親戚で今川家の家臣だった新野左馬之助の孫・木俣守安が寛永年間(1624~44)に記した文書を、後の時代に編集した文書に書かれていたといいます。その内容はこうです。

今川家当主・今川氏真が関口氏経の子を井伊次郎とし、井伊谷の領地を与えた。

関口氏は今川家の重臣。氏経は新野左馬之助の弟でした。井伊次郎は「新野左馬之助の甥」だったとも書かれており、井伊直虎が男だったという根拠になってます。

井伊次郎は男であり、井伊直盛の娘・次郎法師とは別人だというのです。

ちなみに「次郎」は当時、井伊家の当主が名乗る名前とされたといいます。正当性を主張したい人があえて付ける名前といえますね。次郎法師と井伊次郎の両方が次郎を名乗っても不思議ではありません。

これに対して静岡大学教授で大河ドラマの時代考証も手掛ける小和田哲夫氏は

伝聞の二次資料なので、内容を検証する必要がある。戦国期は女性が家督を継ぐ例が他にもあり、直虎が女性の可能性は十分あると考えている

出展:読売新聞

とコメントしています。

また聞きで作られた資料なので信ぴょう性もわからないというわけなんですね。

今後も新たな資料が見つかって研究が進むことを期待したいです。

しかも、この資料には「井伊次郎」としか書かれていません。
井伊直虎とは書いてないんです。

確かに歴代の井伊家当主のことを井伊次郎と書いた記録はあります。井伊次郎は一人だけじゃありません。井伊家の当主を表現する呼び方なんです。

今川氏真の時代、井伊家の当主は井伊直虎になっています。だから井伊直虎=井伊次郎という結論になったようです。

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もともと直虎が署名した資料は少ない

では今回の資料が本物だったとして。井伊次郎は男。井伊次郎が直虎。次郎法師とは別人だった場合。どんな問題がでるのでしょうか?

当然ですが「名前が違ってた」という問題は起こります。今までは次郎法師=井伊直虎でした。大河ドラマや小説のタイトル、ゲームのキャラクター名が変わっちゃいますね。これは問題です。

ところが直虎の資料はもともと極端に少ないのが実情です。「直虎」の署名のある文書は一つしかないのです。

蜂前神社に伝わる文書で永禄11年(1568)、直虎が関口氏経と一緒に署名した井伊徳政令を発布する文書に署名したものだけです。

この直虎が井伊家伝記にある次郎法師と同一人物だとされたことから「次郎法師=井伊直虎説」が始まりました。

他にも徳政令をめぐって今川から「井次」あてに出した手紙があります。「井次」が「井伊次郎」という個人名を意味するのか、「井伊谷の次郎法師」を省略したものかはこれだけでは判断できません。次郎法師も井伊家の当主として井伊谷を治めていた時代があります。次郎法師を井次と呼んでも不思議ではありません。

でも、井次の名前のある書状には「今川家が出せと命令した徳政令をまだ出していないのはけしからん」という内容の文章が書かれています。

「井次」が関口氏経の息子なら、主君の今川氏真に逆らおうとするでしょうか?しかも父の関口氏経は今川家の重臣です。

「井伊直虎」は井伊家当主の名前にはありません。系譜では井伊直親の次の当主が井伊直政になってるんです。直虎が女であれば「女だから虎松(直政)の後見人になっただけ」と説明がつくのですが。井伊家の血をひいてないとはいえ、正式に関口氏経の息子を当主として迎えたのなら名前が残らないのは不自然ですよね。

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直虎の話は井伊家伝記の次郎法師の記述がもとになってる

大河ドラマをはじめ、現在知られている井伊直虎の話は龍潭寺に伝わる「井伊家伝記」がもとになっています。井伊家伝記には井伊直盛の娘の話があります。これが井伊直虎物語の基本(通説)です。ところが井伊家伝記には直虎の名前は出てきません。次郎法師としか書かれていないのです。

井伊直盛の娘は家督を継げる立場にあったこと。許嫁がいなくなったあと出家して「次郎法師」となったこと。

南渓和尚と祐春尼が相談して次郎法師を直政(虎松)の後見人にして井伊家を相続したこと。井伊谷を治める地頭になったこと。

今川氏真から出兵の要請があり小野但馬守を名代(主の代わりに軍を率いる人)にして派遣したこと。

小野但馬守に領地を横領され、井伊谷城を出て母・祐春尼ともに龍潭寺で暮らしたこと。

次郎法師と祐春尼が相談して虎松の生母を松下源太郎と再婚させたこと。

次郎法師が虎松のために小袖を縫ったこと。

などは次郎法師のしたこととして書かれています。

次郎法師の名前が出てくるのは「井伊家伝記」だけではありません。

次郎法師の名前で出した書状には次のようなものがあります。
永禄8年(1565)。龍潭寺(静岡県浜松市)の領地を安堵する内容の書状。これは徳政令が出されると土地を失う可能性があった龍潭寺を救うためだと考えられています。

永禄9年(1566)。福万寺(静岡県浜松市)に鐘を寄進したときの書状にも次郎法師の名前があります。次郎法師が大旦那(寄進した人の代表)と書かれており。鐘を寄進できる人たちのトップになるほどの地位と財力のある人物だったという証明になります。

井伊美術館には次郎法師の使用した鏡などの遺品が残されています。生前の次郎法師が建てて死後彼女の菩提寺となった妙運寺には「妙雲院殿月泉祐圓大姉」という位牌もあります。龍潭時に伝わる次郎法師の戒名と同じ(一部漢字が違いますが読み方は同じ)です。次郎法師が実在した女性だったのは間違いないです。

つまり。直虎の名前で行ったことで確実なのは徳政令を出したことだけ。それ以外は次郎法師の名前で行ったことなんですね。

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直虎男説が本当だった場合の直虎の立場

関口氏経の息子が井伊直虎で一時的に井伊谷の領主になった可能性はあります。今川氏真の命令に逆らう次郎法師を追放して、今川の息のかかったものを無理やり井伊家の跡継ぎとして送り込んだ。かなり強引なやり方ですが、松平元康や武田信玄に攻め込まれてピンチになってた氏真なら強行したかもしれません。強引な方法でも自分の命令を聞く領主を増やしたかったかもしれません。

その場合は実質的には今川家や小野但馬守が井伊谷を仕切っていたことでしょう。

でも次郎法師が井伊家の跡継ぎになれる立場にあって、ある時期に地頭になったことは変わりがないんですね。

おそらく今川家から出された徳政令に反発する次郎法師と徳政令を実行させようとする小野但馬守、関口氏経ら今川寄りの人たちの間で駆け引きや争いがあったのかもしれません。

最終的には次郎法師が追放され、関口氏経の息子を井伊次郎として井伊谷の当主としてまつりあげて徳政令を実行させた可能性はあります。この場合は今川家臣・関口氏経の息子ですから、今川家の操り人形です。

その数か月後、今川家は滅亡し井伊谷は徳川家康の支配下になります。関口氏経の息子がどうなったのかはわかりません。

直虎が男だった場合。直虎は今川家の傀儡として名目上の井伊谷の領主になったにすぎません。でも次郎法師は最後まで今川家に抵抗して武力で領地を追われた人物ということになるのでしょう。むしろ次郎法師は意志の強い女性だった証明になるかもしれません。

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直虎が男でも次郎法師の話にはあまり影響はない

もともと直虎が次郎法師と同一人物というのは少ない資料から考えてのもの。まだまだわからない部分はあります。

井伊直虎は、2006年「女にこそあれ次郎法師」梓澤要、2011年「剣と紅」高殿円、1998年「井伊の国物語」谷光洋。などの出版物で紹介され一部では知られていました。

現在広まってる井伊直虎の物語は井伊家伝記の次郎法師の記述がもとになってます。直虎が関口氏経の息子だったとしても、名前が「直虎」じゃなかった。徳政令を出したのは次郎法師じゃなかった。という変更点はありますが、それ以外はあまり影響はないんですね。

そもそも直虎が関口氏経の息子(かもしれない)という資料は50年前に入手したものだといいます。2000年前後に井伊直虎関係の出版物が出たときにこの資料を公開していれば、こんなニュースにはならなかったかもしれません。

次郎法師の話もなかったことにしたいのなら井伊家伝記を信用しない。とするしかありません。井伊家伝記は井伊家菩提寺の龍潭寺に伝わるとはいえ、江戸時代に作られたもの。井伊家の立場で書かれたものです。すべてを信用する事はできないかもしれません。これは信じる・信じないの世界になります。

でも、わざわざ「井伊信濃守直盛公息女一人之れ有り、(中略)次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候」と書いてあるのは井伊家にとって隠す必要がなかったからなのでしょう。戦国時代よりも男尊女卑の傾向が強かった江戸時代徳川幕府の進めた儒教政策のため)。譜代大名である井伊家の記録にあえて架空の女性を載せる必要はなかったはずです。

そもそも井伊直虎は謎の多い人物です。「直虎は男だった」というのもネタのひとつくらいに思えばいいじゃないでしょうか。

歴史の話は半分ロマンが入ってる。くらいのつもりで楽しめばいいのでは?と思ってます。

 

主な参考資料
読売新聞、2016年12月15日朝刊
梓澤要,城主になった女 井伊直虎,NHK出版

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