小山田茂誠・信繁姉の夫は家老へ大出世

六連銭
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信幸・信繁の姉の夫。小山田茂誠(おやまだ しげまさ)

ドラマでは憎めないキャラとして描かれてますが、
一族の小山田信茂に従って武田家を裏切る形になってしまいました。

処刑されるのかと思えば、生き残ります。

でもその後、行方不明に。

ところが、このあと真田家をもりあげていくとか。

どうなってしまうのでしょうか?

 

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松の夫・小山田茂誠はどうなった?

 

小山田茂誠は永禄4年(1561年)か永禄5年(1562年)の生まれ。
父は小山田 有誠。甲斐国郡内領主・小山田家の分家だとされています。

甲斐国郡内領主小山田家というのはいくつかの分家に別れていました。小山田有誠・茂誠親子は小山田弾正家の出身だといわれています。

勝頼の時代には父の有誠とともに一族の 小山田信茂に従っていました。

小山田信茂が武田勝頼を裏切り武田家滅亡が確定します。この時点では信茂と一緒に行動していたものと思われます。

小山田信茂と妻子、それに従った小山田八左衛門は織田信忠に処刑されます。
でも、小山田茂誠の名はありません。

ドラマでは信茂が織田信忠に会ったときにはその場にいましたが。
実際にはいなかったのかもしれません。

信茂の妻子まで処刑した信忠が許してくれるとは思えません。
小山田一族が捕まっているのを見て、逃げ出したのかもしれません。

武田家滅亡後、茂誠の父・有誠は北条家へと逃れます。

茂誠も従い、北条氏が滅亡した後に真田家に戻ったという説と。
有誠は北条には行かずに、真田家に仕えたという説があります。
この場合、妻の実家を頼ってきたということになりますね。

どうやらドラマではその中間をとって、
一度は真田に戻ろうとしたけど、
結局は北条氏滅亡後に、真田家に戻ってくるパターンのようです。

 

家系を偽って復帰

 

でも、裏切り者小山田氏の一族ということなので
すんなりとは真田の家臣には認められなかったでしょう。

そこで茂誠は、裏切った郡内小山田家とは別の石田小山田家の一族だと名乗ってます。

武田の家臣には石田小山田の系統もありました。
高遠城で仁科盛信と共に織田軍に抵抗した武将に小山田昌成がいます。昌成と同じ系統の一族だと主張したのです。

もちろん昌幸もそうでないことは分かっていたとは思います。昌幸の父・幸隆と石田小山田氏の小山田虎満(小山田昌成の父)は共に武田晴信の下で働いていたのですから。
家柄よりも今の真田家にとって必要かそうでないかを考えての決断だったのかもしれません。

 

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真田家家臣になる

 

ともかく、昌幸は小山田茂誠を家臣とすることを認めました。

でも、家臣の手前や子孫の名誉を思えば石田小山田氏にしておいた方が都合はよかったでしょう。

昌幸は茂誠を信幸の家臣にします。

天承18年(1590年)信濃国小県郡村松郷(長野県青木村)を与えられ領地にします。妻・村松殿の呼び名はこの地名から来ています。

ドラマでも「村松殿」と呼ばれることになるのでしょうか。

真田家が昌幸・信繁と信幸に別れたときは、信幸の側になります。

関ヶ原の戦い以降、真田家は信之(信幸から改名)が当主となります。
茂誠は信之に仕えます。

 

 

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大阪の陣と信繁との交流

 

大阪の陣では病で出陣できない信之に代って、息子の真田信吉、信政が出陣しました。
茂誠は息子の之知と共に出陣。若い真田信吉、信政を補佐しました。

大阪冬の陣の後におとずれた数ヶ月の和議の期間。大阪城にいた信繁からの手紙を之知を通して受け取りました。茂誠はそれに対し返事を送り、鮭の差し入れも送ってます。信繁が大阪夏の陣の前に出した最後の手紙を受け取ったのも茂誠でした。

このことからも、茂誠は信繁とも深いつながりがあったと思われます。

大阪の陣のあと。元和8年(1622年)真田家は松代に国替えになります。
松代でも小山田茂誠 之知は信之に仕えます。

寛永14年(1637年)死去。享年76あるいは77。

小山田家は代々、真田家に仕え家老を出す家柄となります。

小山田家では現在でも信繁から送られた手紙を家宝として大切に保管しているとのことです。

 

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