真田昌幸・武田家滅亡から上田合戦まで

六連銭

武田家滅亡までの真田昌幸についてはすでにお話しました。
真田昌幸・武藤喜兵衛時代と武田家滅亡まで

武田家亡き後、真田家はどうなるのでしょうか。

全ては真田家当主、真田昌幸にかかっています。

今回は武田家滅亡後の昌幸についてお話します。

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武田家滅亡直後の真田家

武田家滅亡後、武田領は織田信長の勢力範囲となります。

上野、信濃の一部を支配したのは滝川一益。
甲斐(穴山領を除く)、信濃の一部を支配したのは河尻秀隆。
北信濃を支配したのは森長可。

穴山梅雪、木曽義昌は自分たちの領地をそのまま治めることになりました。

昌幸は織田信忠に会いますが、信長に会ったかどうかはわかりません。貢ぎ物として馬を送って信長から返事が届きました。

滝川一益は旧武田領の領主達に対して、織田家に従うのであればそのまま自分の領地を治めてよいという通達を出します。領主達は人質を差し出し従うことにします。

真田家は本拠地(真田郷)を安堵され滝川一益の配下となりました。しかし真田家が支配していた沼田と岩櫃城は滝川一益に引き渡されました。つまり織田信長の支配下に入ったということです。

滝川一益の配下になったとき、真田昌幸の母(とり)と弁丸(信繁)を人質として差し出しました。歴史上は安土に娘は送っていません。

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本能寺の変で混乱する旧武田領

甲斐・信濃国の混乱

武田家滅亡から4ヶ月後の天正10年(1582)6月に本能寺の変が起ります。

織田信長を失い、織田家家臣は大混乱におちいります。
なにしろ旧武田領に入って数ヶ月しかたってません。領地の支配も始まったばかり。
いつ反乱が起きても不思議ではありません。
しかも、旧武田領のまわりには上杉、北条といった大大名がひしめいてます。

織田家にしても武田信玄が生きている間は迂闊には攻めることはできなかった。
今度は信長がいなくなったことで自分達が攻められる立場になってしまったのです。

その予想は当たります。
信長が討たれたとの話が領内に伝わると各地で旧武田家臣の反乱が始まります。
これらは組織的なものではなく、それぞれが勝手に起こした反乱でした。
でも現実に甲斐を治めていた織田家重臣・河尻秀隆は殺害されます。
信濃を収めていた森長可たち他の織田家家臣も占領した城を棄て逃げ出しました。

治めるものがいなくなった甲斐、信濃を巡って北条、徳川、上杉が入り乱れて領地の奪い合いが始まります。

昌幸始動

真田昌幸もこのチャンスを逃しません。
まずは信濃国に散らばっていた旧武田家臣と連絡をとり味方にしようと考えます。

旧武田家臣は集まって今後どうするか話し合うことになりました。
話し合いの結果、真田昌幸をかついで新しい勢力を作ることになりました。

実はこのとき昌幸は話し合いには出席していませんでした。でも事前に出席者を味方にしていました。
その人たちが昌幸を総大将にしようと提案して。意見をまとめさせたのです。
もちろん昌幸はその総大将になることを受け入れます。

自分が大将に名乗り出るのではなく、頼まれたから引き受けた形になります。そうしむけたのはもちろん昌幸です。ここでも策士ぶりが発揮されました。

こうして上田の地一帯を本拠地にする新しい真田家の原型ができました。

上野国を治めていた滝川一益はどうなった?

甲斐と信濃の一部を治めていた河尻秀隆が反乱で命を落としました。それに対し滝川一益はなんとか反乱を鎮めて領地を治めていました。

滝川一益としては明智光秀討伐のために京に向かいたいと考えていました。しかし、秀吉に先を越されます。

さらに北条軍が上野国に攻めてきます。

昌幸たち上野衆の国人領主は滝川一益と共同で北条軍と戦うことになりました。この時点では、昌幸たち上野衆はすんなり北条配下になるつもりはなかったのです。

6月18日の戦いでは滝川軍が勝ちました。
19日の戦い(神名川の戦い)では、上野衆は足並みがそろわずたいした活躍ができません。一益は奮闘しますが圧倒的な数の差はどうにもならず負けてしまいます。19日のうちに滝川一益は撤退。昌幸も撤退する滝川一益を助けて退きます。

一益は沼田と岩櫃を真田に返すことを約束しました。
滝川一益は周辺の領主を集め別れの挨拶をします。

昌幸は一益を木曽まで送り届けました。

しかし一益は織田領に戻りますが6月28日行われた清洲会議には間に合いませんでした。明智光秀の討伐では羽柴秀吉に先を越され、清須会議にも出席できなかったことで滝川一益の立場は弱くなっていきます。

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織田勢撤退後の真田家

昌幸は一益より返された沼田城、岩櫃城の守りを固めます。
沼田城には叔父の矢沢頼綱、岩櫃城は息子の真田信幸が守ることになりました。

6月24日。上杉景勝が信濃国・長沼城を占領します。長沼城は上杉謙信と武田信玄が激しく争った因縁の地、川中島一帯の中心となる城です。

ほぼおなじころ北条氏直が上野国に攻めて来ました。

北条から真田の郷を守るため目前の上杉に従うことにします。
しかし北条氏直の勢いは凄まじく、次々と城が落とされていきます。沼田にも氏直の軍がせまります。矢沢頼綱が奮戦しどうにか防いでいました。北条は大軍で攻めてきます。昌幸は頼綱が持ちこたえている間に北条軍と和睦することにしました。

7月12日。昌幸は小県まで軍を進めてきた氏直に出頭し、北条に従いました。弟の加津野昌春(真田信尹)は上杉に残して調略を行わせました。ここで手柄をたててうまく北条に取り入ろうという魂胆です。

北条氏直は川中島で上杉景勝の軍と睨みあいをはじめます。しかし海津城主、春日信達の寝返りがばれてしまい処刑されてしまいました。昌幸はすぐに上杉責めを進言しますが、寝返りを期待していた氏直はそれを却下。上杉景勝との直接対決を避け甲斐の攻略に向かうことにします。

氏直が甲斐に向かうということは、小県から北条軍がいなくなることを意味します。そこで昌幸は自分が小県に残り上杉が攻めてくるのを食い止めることを提案します。氏直はその提案を認め、甲斐へ向かいました。

もちろん上杉が本気になったら真田では食い止められません。上杉領内では新発田が反乱を起こしていたので攻めて来る余裕はないだろうというのが昌幸の狙いです。

その読みは当たりました。小県、沼田から大勢力はいなくなり。真田は自由となったのです。

昌幸は周辺の豪族を味方につけ小県で勢力を拡大していきました。しかし、上野国では北条が勢力を広げ上野国を統一しそうな勢いでした。沼田もいつ引き渡すように言われるか分かりません。

どうしても沼田を自分の物にしておきたい昌幸は徳川家康との接触を図ります。弟・真田信尹はすでに徳川に仕官していたので徳川に連絡をとります。徳川方の交渉担当は依田信蕃でした。武田家臣でしたがいち早く徳川に寝返っていたのでした。

徳川としても、北条の大軍相手に善戦していましたが苦しいことには違いありません。真田を味方につければ信濃、甲斐方面の北条勢を挟み撃ちにできます。

そして交渉成立。徳川氏に従います。10月19日には徳川勢の一員として依田信蕃の部隊とともに戦に参戦しています。

6月末から10月初旬の三ヶ月間に三つの大名家に仕えたことになります。

真田家の領地のある上田・沼田周辺は上杉、北条、徳川の領地が接するあたり。
弱小勢力なのでしかたないとはいえ、その時どきのパワーバランスを考えうまく渡り歩いたといえます。

当然、昌幸の裏切りは北条氏直に伝わります。

真田家の沼田城には北条一族の北条氏邦(藤田氏邦)が攻めてきますが、矢沢頼綱はこれを撃退します。

その間に昌幸と徳川軍は北条軍の補給線を分断することに成功。

各地で苦戦中の北条氏は徳川との戦をやめることにしました。

真田家の運命を左右した徳川と北条の和睦

10月29日に北条氏と徳川氏が和睦しました。
このとき甲斐・信濃の一部は徳川、上野国は北条氏のものとすることが決まったため、上野国の一部である沼田(岩櫃含む)は北条氏に渡すことになりました。

しかし沼田は真田昌幸が勝ち取った土地です。そう簡単に手放すわけには行きません。沼田を守るために徳川についたのにこれでは意味がありません。

昌幸は家康に不信感を持つようになったといわれます。

家康に造ってもらった上田城

天正11年(1583年)。昌幸はそれまでの山城から上田の地を治めるのに都合がいい千曲川沿いに城を作ることを思いつきます。

当時仕えていた徳川家康に対上杉の防御のため城が必要と説得して、徳川に松尾城(後の上田城)を作ってもらいます。対上杉のために北側の防御を厚くしていました。この時点では上田城は徳川の城です。城には徳川軍が入っていました。

6月。沼田城が北条に引き渡されることになり、北条の使者が来ました。でも矢沢頼綱は使者を切ってしまい上杉景勝に報告。秘かに上杉に寝返ってしまいました。もちろん昌幸が考えたことです。

室賀正武を謀殺

7月。昌幸は小県郡の室賀正武領を攻めます。正武は徳川家康に援護を求めます。家康は昌幸の暗殺を指示。しかし、昌幸が逆に正武を罠にかけて抹殺し室賀領を真田のものにしました。他の領主も昌幸に服従します。昌幸は小県群を統一しました。

天正12年(1584年)。羽柴秀吉と徳川家康が対立し、徳川家康は尾張に出陣します。小牧・長久手の戦いです。

昌幸は徳川家康がいない間に北条方の城を攻略、沼田周辺の支配を固めていきます。

徳川家康との対立

天正13年(1585年)。尾張出兵から徳川家康が戻ってきます。すると北条氏直から徳川家康にあらためて沼田の地を引き渡すように催促が来ます。

家康は昌幸に沼田を北条に引き渡すように命令しますが、昌幸は代わりの領地が与えられない限りは渡さないと拒否します。おそらく、家康は上田城から徳川の兵を引き上げて、上田城を真田のものにすることで沼田を差し出させるつもりだったのかもしれません。

でも、昌幸は上田城を自分の城にしたものの沼田は渡しませんでした。

徳川との決別を決意、徳川軍が攻めてくることを予想し上杉景勝に従うことにします。このとき、忠誠の証として次男・弁丸(信繁)を人質に出しました。

上杉景勝は過去にも昌幸に裏切られているのに受け入れてしまいます。さすがに今回は人質をとりました。でも信濃国屋代を真田家に与えています。寛大な対応といえます。上杉にとっても真田のいる上田、沼田は北条、徳川から上杉領を守る防波堤になります。真田を味方につけておくことは都合が良かったのです。

一方、家康は真田が裏切ったことを知ります。しかも徳川が造った上田城がいつの間にか真田のものになっています。さすがに家康は激怒します。北条との和睦の条件もいまだに守れず面目丸つぶれです。

家康は上田城奪還のため真田攻めを決定します。徳川からすれば自分たちが作った城を取り返すための戦い。

でも真田にしてみれば自分たちの本拠地になるべき城は守り抜く覚悟です。

お互いの主張が真っ向から対立するかたちで戦いが始まります。

これが後にいう「上田合戦」です。

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