真田信繁には子供がたくさんいます。
娘の中で一番有名なのは阿梅でしょう。お梅とも書きます。
お梅は信繁と高梨内記の娘との間に生まれました。
大河ドラマ「真田丸」では高梨内記の娘は「きり」となっています。
でもお梅は「真田丸」ではお春の娘ということになりました。
真田太平記など過去の小説やドラマでも、お梅は竹林院(お春)の娘になってることが多いです。高梨内記の娘が登場しなかったからです。
真田丸では高梨内記の娘(きり)が登場するので、お梅の母になるのかなと思いましたが。違いました。きりはあくまでも「パートナ」であり、側室にはならないからなんですね。
でも、真田信繁の娘には違いありません。
お梅は後に伊達家家臣・片倉重長の正室となります。
なぜ、お梅は敵対していた武将の正室になれたのでしょう。
お梅について調べてみました。
お梅(阿梅)の生涯
いつ生まれた?
阿梅がいつ生まれたかにはいくつか説があります。
上田にいるときに生まれたという説と九度山で生まれたという説です。
仙台真田家に伝わる話では生まれ年は慶弔9年(1604)なので
九度山で生れたことになりますね。
信繁が豊臣秀頼に味方して大阪城に入ったときには父についていきました。
他の兄弟、大助、阿菖蒲、大八と共に入ったといいます。
大坂城脱出
大坂夏の陣のことです。
5月6日の夜。いよいよ明日は最後の突撃をしようと決まりました。信繁は伊達家家臣、片倉小十郎重長に手紙を書き家臣に届けさせました。そこには子供たちの保護を求める内容が書いてあったといいます。
夏の陣では伊達軍は真田軍に近い位置に布陣しており、5月6日当日も真田軍と伊達軍は交戦していました。伊達軍の先方として戦ったのが片倉重長の部隊でした。この戦いで片倉重長になら、我が子を託すことができると考えたともいわれます。
また伊達政宗は密偵として家臣の子弟を浪人に成りすませて大坂城に送り込んでいました。連絡を取り合うことは不可能ではなかったでしょう。伊達と真田との間でなにか連絡をとろうとしていたという説もありますが、はっきりとしたことはわかっていません。
信繁の子、阿梅は家臣につれられて大坂城を脱出し片倉の陣に届けられたといわれています。
大阪夏の陣の後、伊達軍はしばらく京に滞在します。
その間に信繁の旧家臣である西村孫之進と我妻佐渡に護られながら、お弁、おかね、八女(名前不明)、大八が送り届けられました。
7月23日、お梅たち信繁の子らを伴った伊達軍は仙台を目指して京を出発しました。
片倉家に入る
伊達軍は9月5日に仙台に到着す。
その後、お梅ら娘たちは片倉重長の居城・白石城で育てられました。男児である大八は城の外で育てられます。
寛永3年(1626年)重長の正室・指月院が病で亡くなりました。そのあとを継いで阿梅は正室となりました。阿梅は指月院から妹の様に可愛がられていたといいます。指月院は重長に対して、自分が亡くなったら阿梅を自分の代わりに正室にするよう言い残して亡くなったともいわれます。
ところが、片倉家に伝わる記録では「阿梅は戦場で捕らえたとあります。そのときは誰なのかわからなかったので城につれて帰って侍女にした。しかし三井という真田の旧家臣が片倉家を訪れてきた。そこで侍女が信繁の娘であることを始めて知った。重長の正室が亡くなった後、阿梅を正室にした」とあります。
片倉家では保護した信繁の娘についてはある時期から信繁の娘であると認めています。でも、あくまでも信繁の娘とわかった上でひきとったというわけではないと主張しています。
たまたま戦場でとらえた娘が真田家の者だったことになっているのです。
決戦前夜に敵方の武将と連絡を取り合って遺児を引き取ったと幕府に知られたら家が潰されかねません。また、男児である大八を匿っていたのを認めたのは明治以降になります。
片倉家の記録に名前のある三井影国は最後まで信繁に従った武将です。庵原元鄰とともに1619年に片倉家に仕官しています。そのころになると、大坂の陣で豊臣に味方した浪人を仕官させてもよいということになっていました。二人は信繁の遺児を助ける活動をしていたと考えられます。片倉重長の誘いで片倉家に仕官することなりました。
その後、阿梅は京で暮らしていた妹のお菖蒲を片倉家に呼び寄せます。
阿梅は子供には恵まれませんでしたが、お菖蒲を養女として育て仙台藩家臣・片倉貞弘に嫁がせます。
阿梅は天和元年12月(1681年)亡くなりました。
お墓は白石市の当信寺にあります。弟の大八(片倉守信)の墓も並んであります。
大河ドラマ「真田丸」では、信繁の最初の妻・堀田作兵衛の妹の名前も「お梅」です。
ややこしいですが、
ドラマではきりは自分の娘に親友の名前をつけたということにするのでしょうね。
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