大坂冬の陣で活躍した真田丸の場所はどこ?有力候補を訪ねてきました

 

真田信繁が作り大坂冬の陣で戦ったという「真田丸」
大坂の玉造口に作られたといわれています。
でも現在のどの場所にあたるのか真田山町、三光神社、玉造商店街など諸説ありました。ところが、近年注目されてるのが大阪市天王寺区餌差町明星中学校のあたり。

そこで真田丸跡地を訪ねてきました。

 

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真田丸を訪ねて

 

現在最も有力な真田丸の跡地といわれてるのが、大阪市天王寺区餌指町付近。明星中学校のあるあたりです。

大阪市営地下鉄・長堀鶴見緑地線の玉造で下車。
JR大坂環状線・玉造駅でも行けます。

地下鉄・玉造駅の2番出口からだと約400m。
JR大坂環状線・玉造駅からだと約700m。

ちなみに、地下鉄・谷町線の谷町6丁目からだと約1200mあります。

駅を出ると目の前が長堀通。

途中の玉造本町には三光神社があります。宰相山公園のあたりです。今回はページの関係で割愛します。時間のある方はこちらも行ってみるといいかもしれませんね。

おんどろ大師の所を曲がると、真田丸跡地はすぐそこです。二股になってますがどっちに行っても真田丸には行けます。左側の道を進むとすぐに真田丸顕彰碑を見られます。

 

真田丸跡地発見

 

しばらく歩くと、中学校の校舎が見えます。

「心眼寺通り」というお寺と学校に挟まれた道を南へ歩いていきます。

中学校の敷地の脇、道から見えるところに「真田丸顕彰碑」がありました。
この辺に真田丸があったということですね。

六連銭と太閤桐の家紋が付いてますね。この場所が”真田丸”として知られるようになったのは最近のためか顕彰碑も新しそうです。

道路を挟んで学校の反対側はお寺が並んでいます。北東の端にあるのが心眼寺。

これも新しそうな「真田丸出丸城跡地」の石碑があります。

 

浅野文庫 摂津真田丸絵図

ここ数年話題になってる絵図があります。あなたも見たことあるんじゃないでしょうか?浅野家に伝わる諸国古城之図 摂津真田丸(通称:浅野文庫)。この絵図と餌差町の地形が似てるというので話題になってます。

 

この絵図は江戸時代1700年代に書かれたものといわれています。真田丸ができた当時とは形が変わってる可能性はあります。

明治時代の地図と比べてみると

でも現在の区画は明治19年(1886年)の大阪実測図とあまり変わってないんですね。さらに明治19年の大阪実測図の区画と浅野文庫”摂津真田丸”に書かれた真田丸の輪郭が似てるんです。

出典:”2016NHK大河ドラマ特別展”真田丸”真田丸図と構造の検討”に加筆。

 

区画がほぼ江戸時代のまま残ってます。しかも現在の明星中学校のあたりは「字真田山」って書かれてます。

「字(あざ)」は小さな集落の意味なので。少なくとも江戸から明治にかけてはこのあたりが「真田山」と呼ばれていたということですね。それならなんで現在は他の場所が真田山って呼ばれてるんでしょう?

地図で「字谷筋」が豊臣時代の大坂城の惣構堀。「清堀村」の文字のあるあたりがかつての真田丸の堀だったかもしれませんね。

現在の三光神社のあたりは宰相山です。今でも宰相山の地名は残ってます。

 

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実際に真田丸跡地をあるいてみよう

そこで”浅野文庫 摂津真田丸”と比べながら歩いてみました。とくに高低差のわかりやすい部分を絵図と実際の写真が分かりやすいように番号を付けて紹介します。
まず、真田丸顕彰碑の位置を1番。

2番が心眼寺通りに面する学校の北の端。

学校の敷地が人の背丈よりも高い位置にあります。

3番は真田丸北側。グランドの地面がビルの2階の高さにありますね。

突き当りは右に曲がるカーブになってます。

4番は北側のL時に曲がったところ

道が2か所で折れ曲がってます。絵図と面白いくらい似ています。

5番、真田丸の北側は今はビルが建ってます。でも面白い町名を発見。餌差町の隣は”空堀町”なんです。

そしてこのあたりがまさしく大坂城の惣構堀があったところなんです。真田丸のあたりは空堀だったといわれてます。名残かもしれませんね。

町名に空堀が残ってるのはこのあたりだけですが。延長線上には空堀公園や空堀商店街があるんですよ。豊臣時代の大阪城の惣構堀はこうなっていたといわれています。

下図のグレーで塗った部分です。

地名や道路の曲がり方をみるとけっこう痕跡が残ってるように思えますね。

もう一度、北側に戻って真田丸北東の角です。
6番は心眼寺の裏側になります。

浅野文庫の摂津真田丸絵図では寺の裏側は崖のような表現になってます。まさに絶壁ですね。現代の区画整理のおかげで絶壁ぶりが際立ってます。

真田丸の西側。お寺の裏側は絶壁が続いてます。

お寺の敷地はマンションの3階あたりにあるでしょうか。

 

真田丸の北側端から、北(大坂城方面)を見ています。

図面がなければここが真田丸跡地とは思えません。破壊が徹底していたんでしょうね。

真田丸から南(幕府軍が攻めてくる方角)を見ています。このあたりは堀があったと思われますが、痕跡はありません。

レーダー調査では地下に堀が埋まってることが確認されたそうです。

真田丸は北は大坂城の惣構堀。東と西は崖。南は大坂平野に続く大地に面していたと思われます。南側に堀を掘って侵入を防ぐつもりだったのでしょう。

 

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真田丸跡地を訪ねて

今回は浅野家に伝わっていた諸国古城之図 摂津真田丸をもとに真田丸の跡地を訪ねてみました。もちろん江戸時代に書かれた絵図なので真田丸ができた当時とは地形が変わってる可能性はあります。真田丸の場所や形については様々な説があります。

でも実際に歩いてみて「確かにこのへんなら陣地があってもおかしくはないな」と思いました。なにより地図を片手に跡地を歩くのは楽しかったですね。

 

三光神社や真田山周辺も訪れたのでまた報告します。

真田丸の場所はどこ?跡地めぐり2・宰相山・三光神社を歩く

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