大河ドラマ「真田丸」など多くのドラマでは武田勝頼の最後はかなりあっさりと描かれてます。
勝頼の最後を詳しく描いたドラマってないですね。
そこで、織田・徳川連合軍の総攻撃が始まって武田家が滅亡するまでを詳しく紹介します。
織田・徳川の猛攻撃にさらされる武田家
1582年、勝頼は本拠地を躑躅ヶ崎館から新府城に移しました。
躑躅ヶ崎館は城ではなくただの館だといわれていますが、堀に囲まれ最低限の防御能力はありました。
でも平地にあり、本格的な山城に比べると防御力に不安があることから、守りやすい新府城に本拠地を移したのでした。
木曽義昌は信濃の国、木曽谷の領主でした。
武田信玄に負けて武田家に服従していました。信玄の死後、武田家の行く先に不安を持っていました。そこに度重なる出兵と新府城建築の負担に我慢の限界が来ます。
秘かに織田信長に接触をはかり武田家から離脱して織田家への寝返りを試みます。
そして1582年2月、武田家から離反します。
それを知った勝頼は木曽家からとっていた人質を殺害し、木曽義昌を成敗すべく軍を派遣します。
しかし、雪のため進軍がままらない上に、織田家の援軍を得た木曽軍は地の利を生かて武田軍の攻撃を退けます。
木曽軍と武田軍が戦っているあいだに、織田信忠を大将とする織田軍が伊那(長野県南部)と飛騨(岐阜県北部)方面から武田領に接近。
織田家と同盟を結んでいた徳川は駿河(静岡)方面から、北条軍が相模(神奈川)方面から責めることになりました。
織田、徳川、北条の全ての軍を合わせると10万を超える兵で攻撃したことになります。
この時期にこれだけの兵力を動員した戦というのは非常に珍しいです。
更に間の悪いことに、浅間山の噴火が重なり、領内は大混乱になってしまいます。この時代、火山の噴火は悪いことの前触れとして信じられていましたので領民や家臣の間に動揺が広がります。
攻めて来る織田軍に対して、武田領の各地ではまともな抵抗ができないまま城が奪われていきます。
重臣穴山梅雪の裏切り
そんな中、重臣筆頭の穴山梅雪が徳川に寝返って、家中は騒然とします。
梅雪は信玄時代徳川との交渉役をしていました。
勝頼時代も対徳川の守りとして駿河方面を任されていました。
しかし、梅雪はその人脈を生かして秘かに徳川家への寝返り工作をしていました。
織田軍の総攻撃が始まると、徳川軍も開始、梅雪の案内でやすやすと武田領に進軍してきたのでした。
武田家と運命を共にした仁科盛信
武田領の各地では総崩れとなる中で最後まで武田家を守り散っていった武将がいます。
仁科盛信(にしな もりのぶ)です。信玄の五男で勝頼の異母弟にあたります。
仁科盛信が守る高遠城は3000の兵で3万の織田軍に囲まれます。織田軍の降伏勧告にも応じず総攻撃を受けて城は落城、仁科盛信は自刃。享年26。
小山田昌成、小山田大学助ら家臣も盛信とともに討死します。
裏切りの相次ぐ武田家の中で最後まで織田の大軍相手に戦い武田家と運命を共にした仁科盛信。全国的には有名ではありませんが、長野県の県歌にも歌われるほど尊敬される人物です。
織田信忠とは同じ年で面識もあったようです。盛信の実妹、松姫が信忠の婚約者という縁もありました。
一説によれば、若武者同士で話が盛り上がることもあったといわれます。お互いを知るもの同士が一族を代表して戦うことになったとき、何を思ったのでしょうか。
余談ですが、このとき飯田城を守っていた保科正直(ほしな まさなお)が高遠城に逃げ延びていました。高遠城が包囲されると織田家への寝返りを試みます。城に火を放って寝返る計画をたてましたが、高遠城の警備が厳重で失敗。高遠城が落城すると逃走しました。
松姫と信忠の悲恋
仁科盛信の実妹・松姫は織田信忠の許婚でした。
信玄時代に武田家と織田家が同盟したときに婚約が交わされました。その後、武田家と織田家が敵対すると婚約は解消になっています。
その後は実兄・仁科盛信のいる高遠城下の館で暮らしていました。織田軍が接近すると兄・仁科盛信の判断で勝頼のいる新府城に逃がされました。武田家滅亡後は盛信の娘と共に武蔵野国に落ち延びて隠れ住んでいました。
織田信忠は高遠城を包囲したときに、仁科盛信に対して降伏を勧めます。このとき信忠は松姫が高遠城にいると思っていました。盛信が降伏を拒否したため総攻撃の命令を出しますが、松姫救出のため信忠は真っ先に堀を上ったという逸話があります。
戦の後、松姫が生きている事を知った信忠は松姫の居場所を探し出し迎えの使者を出します。
しかし松姫が信忠に会いに行く途中で本能寺の変で信忠が死亡したために再会はかないませんでした。
その後、出家して信松尼となり、武田一族とと信忠の冥福を祈ったといいます。
なお、織田信忠の嫡男、三法師の母親についてはいくつかの説があります。
その中に松姫が母親だという説もあります。現実的にはかなり難しいとは思いますが、本当ならドラマチックですね。
武田家の最後
高遠城の落城を知った勝頼はいよいよ目前に迫った織田軍に対する対応を決めなくてはなりませんでした。
勝頼の息子の信勝は新府城に立て籠もり籠城戦を行うことを主張します。真田昌幸は岩櫃城に逃げ延びて信濃で再起を図ることを主張。いったんは岩櫃城へ行くことが決まりますが。勝頼の家臣、長坂光堅や小山田信茂が岩殿城へ行くことを進言します。勝頼は小山田信茂の言うとおりに、岩殿城へ行くことを決定します。信玄以来の甲斐を離れることができなかったとも、小山田信茂を信頼していたとも言われます。
天正10年(1582年)3月3日。勝頼は新府城を放棄し、岩殿城へ向かいます。
しかし、小山田信茂の裏切りにあい岩殿城へ向かうことを断念。天目山へ向かうことを決定します。
なぜ勝頼は天目山を目指したか
天目山は武田家にとって重要な場所なのです。
室町時代、武田家は甲斐の守護を勤めていました。
親戚の上杉禅秀が室町幕府に反乱を起こしたとき、当時の武田家当主、信満は上杉禅秀に味方し反乱に加わりました。
幕府側との戦いに敗れて逃走中に家臣の謀反に遭い、天目山で自害します。
その後、足利将軍は京で出家していた武田信満の息子を復帰させ武田家を継がせます。
それが信玄につながる甲斐武田氏です。
勝頼は、祖先の自害した地で最期を迎えることを選んだのです。
勝頼最後の戦い
天正10年(1582年)3月11日。
天目山を目指していた勝頼一行は、天目山に近い田野で追ってきた織田軍の滝川一益の部隊と戦います。
滝川一益の部隊は3000~4000。
そのとき、勝頼に従うものは50名足らずになっていました。
圧倒的多数の滝川軍に対して、土屋 昌恒、小宮山 友晴、安倍勝宝らが奮戦。
土屋 昌恒は「片手千人切り」の逸話が出るほど果敢に応戦します。享年27。
小宮山友晴は勝頼の側近とは仲が悪くたびたび非難していました。そのせいもあり蟄居(ちっきょ)させられていたのですが、勝頼が天目山に向かったことを知ると「譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めぬのは末代までの恥」と天目山に駆けつけて滝川軍と戦い討死しました。このとき友晴と一緒に駆けつけた息子の小宮山昌親は、勝頼の命令で家族と共に落ち延びました。
安倍勝宝は滝川軍に切り込んで戦死。
また、勝頼の側近の長坂光堅、土屋昌恒、秋山源三郎たち、勝頼の諏訪時代からの家臣も討死しています。
大河ドラマ「真田丸」では勝頼の側近は省略されているみたいです。
ドラマの登場人物では跡部勝資が最期まで付き従い討死しました。
勝頼たちは少ない数で奮戦するも、圧倒的な数の前にはどうにもならず死を覚悟します。
そして土屋 昌恒達が時間を稼いでいる間に、勝頼・信勝は自害します。
ここに甲斐武田氏は滅んだのでした。
歴史の教科書やドラマでは武田勝頼は家督を継いだ後、簡単に滅んだような書かれ方をすることが多いですが。
そこに至る過程では、さまざまな出来事がありました。
さまざまな人のつながりや思いが入り乱れているのが歴史の面白いところでもあります。
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