子供のいない豊臣秀吉から関白の座を譲られた豊臣秀次。
関白になるまでの秀次の前半生はこちらを御覧ください。
・豊臣秀次・秀吉の後継者なのに暴君・無能は濡れ衣?
京の都では公家の付き合いもこなし、
国内のまつりごとをおこない。
無難に治めていました。
秀吉の後継者として地位を固めつつあったかに見えました。
しかし、そんな秀次の運命を変えてしまう出来事がおきます。
秀頼の誕生です。
豊臣秀次の運命を分けた秀頼の誕生
しかし、文禄2年(1593年)淀殿が男児を出産。拾と名づけられます。後に豊臣秀頼となるこの子の誕生が秀次の運命を変えます。
拾の誕生で、秀吉は関白を譲ったことを後悔するようになります。
秀吉は2本を5つにわけ、4つを秀次、1つを秀頼に継がせると秀次に伝えます。
その後、秀次は喘息が悪化した為、熱海に湯治に出てます。秀頼の誕生後、ストレスにより喘息気味になっていたのでした。しかし、秀次が不在の間に秀吉は秀次の次は秀頼に関白職を継がせることを勝手に決めます。
大坂では淀君とその側近達が発言力を増して秀次としては心労の重なる日々が続きました。
秀吉は伏見に淀君と拾を迎えるため伏見城の拡張工事を行います。大名屋敷が立ち並び、隠居の地というより新たな拠点として発展をしました。
しかし淀君は伏見に移ることを拒否します。
第二次の朝鮮出兵・文禄の役では秀次は出陣の予定でしたが、持病や秀吉が出兵を延期したこともあり中止になりました。
黒田如水は肥前・名護屋で朝鮮出兵の指揮をしている秀吉に代わり秀次が指揮をすべきと進言しましたが、秀次は聞き入れなかったといいます。朝鮮出兵は秀吉が好んでやってることであり、秀次としては外国と戦をすること自体が賛成できないことでした。自らも体調が悪い中で無理して出陣する理由はなかったのです。
文禄4年6月(1595年)。突然、秀次が謀反をたくらんでいるとの疑いがかけられます。
7月3日。聚楽第に石田三成・前田玄以等の秀吉の奉行衆が派遣され、問いだ出します。秀次は謀反を否定。無実であるとして起請文を出します。
7月5日には秀次と毛利輝元が密談していると三成が秀吉に訴えます。秀吉は秀次に伏見に来るように伝えます。秀次としては身に覚えのないことでもありすぐには応じませんでした。
7月8日。秀次のもとを前田玄以、宮部継潤、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊がおとずれ、秀次を説得します。前田玄以以外は秀次ゆかりの者です。
秀次は秀吉に会うため伏見城へ行きました。
しかし秀次は伏見城へ入ることが許されませんでした。木下吉隆の屋敷に入るように命令されます。「まずは高野山へ行くように」との命令を受けたため、秀次は剃髪して伏見を出発しました。
秀次の死
この時点では秀次はまずは秀吉の許しを請うために言われるがまま従ったほうがよいと考えたようです。
高野山に向かう秀次には2~300の兵が従いましたが、石田三成が数が多すぎるとして10人あまりに減らしました。
秀次が出発したあと、秀次の妻子は捕らえられました。
7月10日。秀次は高野山青巌寺で出家し、道意と名を改めました。
7月12日。秀吉は、秀次を監禁するように支持。
その間に秀次の家臣が捕らえられたり切腹したり、処刑されました。
7月15日。秀次のもとに福島正則・池田秀氏・福原長堯が訪れ、秀吉からの切腹の命令を伝えます。
高野山の僧らは秀次を助けるために抗議します。
秀次が切腹しなければ高野山そのものが失われることになるとの福島正則の脅しもあり秀次は切腹することを受け入れます。
秀次とその家臣は自害して果てました。
秀次は剣の腕も確かで名剣も持っていたようです。山本主殿助、山田三十郎、不破万作の小姓が自身するときには秀次の持つ名刀をあたえ自ら介錯人を務めたといいます。
その後、秀次は自刃しました。享年28。
秀次の介錯は雀部重政が務めたといいます。雀部重政は秀次が三好家の人質だったころからそばに仕える家臣です。そして秀次に仕える家臣達も自刃しました。
7月16日。持ち帰られた秀次の首を秀吉が確認します。
しかし、秀吉はまだ満足せず家族全員の処刑を命じます。
8月2日。三条河原で秀次の首がさらし者にされ、その前で妻子39人が処刑されました。
鴨川の水が赤く染まったといいます。あまりにもの酷さに民衆からも抗議の声が上がりました。
妻子の遺体は大きな穴にまとめて埋められました。その穴を埋めて塚が作られ、秀次の首を治めた石櫃が置かれました。石筆には「秀次悪逆」の文字が刻まれていたといいます。
人々はこの塚を「殺生塚(摂政塚)」「秀次悪逆塚」と呼んだといいますが、洪水により荒れ果てて放置されるようになりました。
現在は妻子とともに瑞泉寺に葬られています。
秀次一族が処刑されたあと、秀次の痕跡を消すように聚楽第は壊されて跡形もなく埋め立てられてしまいました。秀次が建てた近江八幡の城も取り壊されています。
生き残った娘
秀次の子供もほとんどが処刑されました。
しかし、少ないながらも生き残った子供もいたといいます。
真田信繁の側室となった隆清院もそのひとり。
隆清院の母は秀次の正室・一の台御局。三条河原で処刑された一人です。
一の台御局は公家の菊亭晴季娘の娘。非常に美しかったことから秀次が是非にと正室に迎えたといいます。
その娘の隆清院がなぜ生き延びることができたのかはわかりません。
豊臣家の命運を縮めた秀次の死
秀次は秀吉のあとを受け継ぐ豊臣第二世代の中では年長格でした。
秀次は石田三成よりも戦の経験が豊富です。
小牧長久手の戦いでは大敗しましたが、当時は16歳。それで家康相手では荷が勝ちすぎます。それでも戦場で先陣をきろうという気概はありましたし、その後の戦では無事に勤めて無能な武将でないところを見せています。
政でも領地を発展させ秀吉から関白をゆずられた後は国内を無事収めました。
豊臣秀俊(小早川秀秋)とともに、秀頼を補佐することが期待されました。
もし、秀次が関白として秀吉亡き後も生きていればどうなったのでしょうか?
徳川家康が天下を狙えば豊臣家を守りきるのは難しかったかもしれません。
でも、豊臣家の滅亡はもっと後になったかもしれません。
もしかしたら別の形で残ったかもしれません。
なんとも残念なことです。
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