妻木煕子:明智光秀との結婚秘話と最期の別れ

妻木煕子(ひろこ)は明智光秀の正室で細川ガラシャの母です。お牧の方、伏屋姫ともいわれます。光秀にとても愛された仲のよい夫婦でした。結婚話や亡くなる前のいくつかの逸話が伝わっています。

妻木煕子とはどんな人だったのか紹介します。

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妻木煕子とは

名 前:妻木煕子(つまき ひろこ)
通 称:お牧の方、伏屋姫
生 年:不明
没 年:天正4年(1576年)、あるいは天正10年(1582年)
父:妻木勘解由左衛門範煕(つまき かげゆざえもん のりひろ)
母:不明
妹:名前不明
子:3男4女

煕子の生年は分かっていません。

煕子の家系

父は美濃国土岐郡妻木郷の豪族・妻木範煕(つまき のりひろ)。煕子は範煕の長女だったようです。

妻木広忠を父とする説もありますが、広忠は光秀の伯父なので範煕の兄になります。伯父の妻木広忠は妻木城(岐阜県土岐市)の城主を務めました。

妻木氏は土岐氏に仕えた明智氏から分家した一族です。光秀と煕子は親戚のようなものだったのでしょう。

光秀との結婚

天文14年(1545年)。光秀と煕子は婚約しました。

光秀と煕子は非常に仲がよかったといいます。そのためいくつかの逸話が残っています。

結婚直前のことです。煕子が疱瘡(天然痘)にかかったことがありました。幸いにも疱瘡は治りましたが痕が残りました。煕子の父は縁談話を潰したくなかったのか、かわりに煕子の妹・芳子を光秀に嫁がせようとしました。

でも光秀は「人の容貌はすぐ変わるが、心の美しさは変わらない」といって煕子と結婚しました。

明智城落城

弘治2年(1556年)。明智光秀が仕えていた斎藤道三は子の斉藤義龍に反乱を起こされて死亡します。道三に味方していた明智家も攻められ居城の明智城が落とされてしまいました。このとき光秀は身重だった煕子を背負って越前(新潟県)に逃げたといわれます。

美濃街道を通って越前にたどり着いた光秀と煕子は丸岡にある称念寺の門前で暮らしました。

苦しい生活を支える煕子

やがて光秀は朝倉家の保護をうけて生活することになりました。しかし正式な家臣ではないので生活は苦しいままでした。

あるとき朝倉家の重臣たちが集まって連歌会をすることになり、光秀が酒宴の担当になってしまいました。酒宴の費用は担当者が出さなくてはいけません。光秀は費用が足りなくて苦労していました。それを見かねた煕子が自分の黒髪を売ってお金に変えて祝宴の費用を賄ったといいます。

この話は称念寺に伝わる話です。

江戸時代になって松尾芭蕉が奥の細道の旅行中に丸岡に立ち寄りこの話を聞きました。そして元禄2年(1689年)門弟の山田又弦の邸宅で行った歌会で「月さびよ、明智が妻の、咄(はなし)せむ」の詩を披露しました。

江戸時代には明智光秀は謀反人といわれ一般的な評判はよくありません。それでもこのような美談が残るのは光秀と煕子の仲のよさが人々の心を打ったからなのでしょう。

その後、明智光秀は織田信長の家臣になります。

光秀は本願寺攻めにも加わりました。

天正4年(1576年)。しかし戦の最中に光秀は重病になってしまいました。煕子が光秀の看病をしたおかげで光秀はよくなりました。

病に倒れる

10月。ところが今度は煕子が病気になりました。病気が感染ってしまったのかもしれません。光秀は京都の神職・吉田兼倶に病気を治すため祈祷を依頼しました。このときの「光秀の室」とは煕子だといわれます。吉田兼倶はお守りを持って煕子を訪れ、お祓いをしました。祈祷の効果があったのか病は快方にむかいました。喜んだ光秀は兼倶にお礼の銀を送りました。(兼倶卿記)

しかし病は完全には回復しませんでした。

西教寺の過去帳によると11月7日。煕子は亡くなります。

享年は46とも42、36ともいいます。

戒名は福月真祐大姉。滋賀県大津市の西教寺にお墓があります。西教寺は明智氏と妻木氏の菩提寺です。

江戸時代に書かれた「明智軍記」では天正10年(1582年)の坂本城落城のときに妻子が自害したと書かれています。煕子が生きていたのでしょうか?病気で死んだのは別の人(側室?)だったのでしょうか?それとも再婚したのでしょうか?謎は残ります。

煕子の子供

光秀と煕子には3男4女の子がありました。
先妻や側室がいたのではないかという説もありますが、一般には煕子といわれています。

三女(四女の説もあり)が細川ガラシャとして知られる珠(たま・玉)です。

長男:光慶
次男:光泰
三男:乙寿丸
長女:(名は不明)明智光満の妻
次女:(名は不明)明智光忠の妻
三女:玉(別名:ガラシャ)細川忠興の妻
四女:(名は不明)織田信澄の妻

その後の妻木氏

なお。煕子の実家・妻木氏は関ヶ原の戦いで東軍についてたたかいました。その功績で妻木7500石の領地を安堵されました。一旦はとだえますがその子孫は旗本となって明治まで残りました。

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