碓井姫は酒井忠次の妻です。
酒井忠次は徳川家康の重臣・徳川四天王の筆頭と言われる人物です。
最初は松平政忠と結婚しましたが。松平政忠の戦死後、酒井忠次と再婚しました。
NHK大河ドラマ「どうする家康」では登与(とよ)の名前で登場します。
碓井姫とはどんな人だったのか紹介します。
碓井姫 とは
名 前:於久(おひさ)?
通称:碓井姫(うすいひめ)、碓井殿、吉田殿
法号:光樹院
生 年:享禄2年(1529年)
没 年:慶長17年11月27日(1613年1月17日)
父:松平清康
母:華陽院
夫:松平政忠、酒井忠次
子:酒井家次、本多康俊
享禄2年(1529年)。三河国で生まれました。
本名は於久(おひさ)とも言われます。
この記事では一般に知られている碓井姫で紹介します。
父は松平清康(まつだいら きよやす)
松平清康は徳川家康の祖父。
碓井姫は徳川家康の叔母になります。
母は華陽院(かよういん)
華陽院は松平清康と結婚する前に水野忠政と結婚して於大の方を生んでいます。
碓井姫は徳川家康の母方の伯母にもなります。
松平政忠と結婚
碓井姫は最初は長沢松平家の松平政忠と結婚しました。
松平康忠を生みました。
ところが松平政忠は桶狭間の戦いで戦死。
長沢松平家は15歳の松平康忠が家督を相続。
酒井忠次と再婚
碓井姫は酒井忠次と再婚しました。
永禄7年(1564年)。酒井家の長男・酒井家次が誕生。
永禄12年(1569年)。康俊が誕生。
康俊は後に本多忠次の養子になります。
永禄7年(1564年)。三河国吉田城攻で夫の酒井忠次が手柄をたて吉田城の城代になりました。碓井姫も夫ともに吉田城に入りました。
そのため「吉田殿」と呼ばれることもあります。
豊臣秀吉の時代。酒井忠次は秀吉から京都桜井(京都市上京区桜井町、首途八幡宮付近)に屋敷を与えられ。近江国内で1000石の知行地を与えられました。
天正16年(1588年)。忠次が隠居。酒井家は家次が継ぎました。
忠次は桜井の屋敷で暮らしました。
徳川家康が駿府から関東に移動になると。
酒井家次は下総国碓井(臼井)城と3万石の領地を与えられました。
碓井姫も家次とともに碓井城に移り住んだので「碓井殿」「碓井姫」とよばれました。
61歳の碓井姫が「姫」と呼ばれたのは「高貴な人」という意味があったからとも言われます。
夫の忠次は京都で暮らしました。
慶長元年(1596年)。夫の忠次が京都で死去。知恩院に葬られました。
慶長9年(1604年)。酒井家次は碓井(臼井)から上野国高崎藩に異動になりました。
慶長17年(1612年)。碓井姫が死去。享年84。
「酒井忠次公傳」によると遺言により夫の眠る知恩院先求院に葬られたといいますが。
「寛政譜」によると三河国の宝蔵寺に葬られたともいい。出羽庄内の大督寺に改葬されたともいいます。
ドラマ
どうする家康 2023年、NHK大河ドラマ 演:猫背椿 役名:登与
史実同様に最初、松平政忠と結婚。松平政忠の戦死後、酒井忠次と再婚。明るいしっパリ者。夫婦仲はよく、酒井忠次とともにえびすくい踊りを披露することもあります。瀬名や於大の方のよき話し相手。
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