愛加那・西郷隆盛の二人目の妻は奄美大島の女性

西郷隆盛は3回結婚しています。つまり3人の妻がいたんですね。
二人目の妻は西郷隆盛が奄美大島で暮らしていた時に出会いました。

愛加那といわれる女性です。いわゆる現地妻になります。愛加那との出会いと暮らしが、挫折した西郷隆盛の心を癒やし、隆盛の奄美大島の人々への偏見を改めさせるきっかけにもなったようです。

大河ドラマ「西郷どん」では愛加那は行動的な女性で、吉之助とは恋愛結婚の末に結婚。とかなりドラマチックな展開と現代的な女性に設定されています。

歴史上の記録に残る愛加那とはどのような人だったのか紹介します。

愛加那(あいかな)とはどんな人?

名 前:愛加那(あいかな)
生 年:天保8年(1837年)
没 年:明治35年(1902年)
父:龍佐栄志(佐恵志) 
母:枝加那
兄:富堅
子:西郷菊次郎、菊子

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奄美大島の生活になじめない西郷隆盛

安政5年(1858年)。島津斉彬の死によって西郷隆盛の運命は大きく変わりました。後ろ盾を失った隆盛は幕府から追われる身となります。幕府の追求を逃れるため、薩摩藩は隆盛を菊池源吾と名乗らせ奄美大島に移しました。

流罪ではなく、隆盛の身を守るためにしたことです。でも隆盛は不満でした。

当時の奄美大島は薩摩育ちの人からみるとあまり良い印象はなかったようです。薩摩からは罪人が送られる場所になっていました。

奄美大島は現在は鹿児島県に所属していますが、かつては琉球の影響が強い地域でした。言葉や習慣は薩摩よりも琉球に近かったのです。

隆盛も奄美大島に来た当初は島民と馴染めませんでした。島民は隆盛を気味悪がってなかなか近づこうとしません。

ドラマ「西郷どん」では愛加那の兄・富堅が、薩摩に反感を持つ人物として描かれます。実在の富堅が吉之助に反感を持っていたかはわかりませんが。奄美を支配していた薩摩に対する奄美の人々の印象は決して良くなかったでしょう。

隆盛も奄美の風習があまりにも薩摩と違いすぎるので島民を嫌悪していました。島の女性が入れ墨をしているのを見て不快に思ったと手紙に残しています。

とはいえ、隆盛も徐々に島の生活に慣れていきました。

奄美の実力者・龍左民(りゅうさたみ)の依頼で島の子ども3人に読み書きなどを教えていました。龍氏は郷士の家柄でした。

次第に島民とも親しくなり、龍佐栄志の娘・於戸間金(おとまがね)を島妻に娶りました。

隆盛は於戸間金に愛加那(あいかな)と名乗らせました。

島妻(あんご)とは

島妻(あんご)とはいわゆる愛人、現地妻です。薩摩から来た役人、あるいは薩摩から送られた罪人が島にいるときだけ妻にする女性です。男が薩摩に帰るときには島妻は薩摩にはつれて帰れないきまりになっていました。

産まれた子供は郷士格となり、島内ではそれなりに高い身分になりました。家族も恩恵をうけることができました。

当時は奄美の人々は薩摩によって重い税をかけられ差別的な扱いを受けていました。そこで島内の人々にとっては苦しい生活から逃れるため、娘を島妻にする家も珍しくなかったようです。

愛加那(あいかな)の実家は奄美では有力者でした。貧困から抜け出すためとはいえないかもしれません。

愛加那の父・龍佐栄志は薩摩の役人と縁組させることで、人脈を築くなどの何らかのメリットがあると判断したのでしょう。事実、西郷は薩摩に帰国後、奄美の人々の待遇を改善するために薩摩藩上層部に訴えることもしました。龍家としては西郷と親しくすることは奄美のためになると思ったのかもしれません。

島民と親しくする隆盛

当初は島民とも馴染めなかった隆盛ですが、愛加那と出会う前後あたりから島民ともうちとけていきました。

傷心の隆盛にとって愛加那との出会いが心の癒やしになったようです。

とくに島民が薩摩の役人からひどい仕打ちをされていることを知ると隆盛は役人に抗議し、捕らえられた島民を解放しました。隆盛はさらに島民の尊敬を集めるようになりました。

万延元年(1860年)。愛加那が菊次郎を出産しました。隆盛にとって最初の子供です。

大久保利通への手紙には男の子ができたことを「不埒の次第」と書いてますが、恥ずかしかったようです。内心ではとても喜んだことでしょう。

しかし、愛加那との生活は長くは続きませんでした。

隆盛に薩摩藩からの召喚命令が出たのです。隆盛は帰らなければいけません。このとき愛加那は妊娠中でした。

隆盛が薩摩に帰った後産まれたのが長女・お菊(菊子)です。

薩摩に帰った後も隆盛は愛加那や子どもたち、奄美大島の人々のことを気にかけました。待遇を改善し、適切な役人を派遣するように薩摩藩にはたらきかけています。

文久2年(1862)。隆盛が島津久光の怒りをかって徳之島に流罪になったとき、子供二人をつれて西郷隆盛に会いに行きました。

元治元年(1864)。西郷隆盛が薩摩に帰ることになり、薩摩に帰る途中に奄美大島に立ち寄り愛加那と会いました。これが愛加那と隆盛が会った最後になります。

子供たちは西郷家に引き取られました。

子どもたちが西郷家に引き取られたあとも、愛加那は奄美大島で暮らしました。

明治35年(1092)。農作業中に倒れ亡くなります。

愛加那との生活は短いものでしたが、隆盛がもっていた島の人々への偏見をなくし。薩摩の島民への扱いをあらためさせるきっかけにもなったのかもしれません。

子どもたち

菊次郎

隆盛の長男・菊次郎は2歳の時、西郷本家に引き取られました。12歳でアメリカ留学。
17歳の時、隆盛とともに西南戦争に参加します。しかし戦いで銃弾を受け、右足の膝から下を失ってしまいます。負傷した菊次郎は官軍に投降しました。

官軍には隆盛の弟・西郷従道がいたので、従道は菊次郎が投稿して助かったのを喜んだといいます。

西南戦争のあとは、外務省に入り。米国公使館や本省で勤務しました。京都市長にもなっています。

お菊(菊子)

お菊は、大山巌の弟、大山誠之と結婚しました。菊子と名乗ります。大山巌・誠之兄弟は、西郷隆盛・従道兄弟の従兄弟になります。

コメント

  1. 奄美研究家 より:

    小説の影響か、愛加那に関して事実誤認があるようです。
    彼女は龍家(もと田畑家)の娘で、1726年には外城衆中格(郷士格)になった家であり、大昔より奄美の為政者であった名家の出身です。まったく貧しい家ではありません。
    一度ちゃんと調べてみてください。
    生まれた子が郷士になれる、は龍家・田畑家には当てはまりません。
    石高も西郷家よりはるかに多いのですから。

    • 文也 より:

      奄美研究家さんこんにちは。なるほど。「生まれた子が郷士になれる」は一般論としてはあるようですが、愛加那の実家・龍家についてはもともと郷士の家だったのですね。ご指摘ありがとうございます。

      • 奄美研究家 より:

        重ねて補足いたします。
        「生まれた子が郷士になれる」は、生まれた男子が本領に引き取られた場合にどのように扱われるかという、極めて個別的な問題に過ぎません。
        一般論では決してありません。
        奄美においては、龍家(田畑家)が1726年に代々外城衆中格(後の郷士)となってから1783年まで郷士格は誕生していません。
        それが文政年間(1818年~)以降、郷士のへの取り立てが増加し1850年に42家に達しますが、田畑・龍氏のみ新田開発等を理由にし、それ以外はほとんどが砂糖献上、一部が唐通事での功績によるものです(和家文書より)。
        すなわち、生まれた子によって郷士の家が誕生した事実は存在しません。

        • 文也 より:

          奄美研究家さんこんにちは。もちろん郷士の家が増えるという意味で書いたのではありませんよ。産まれた子が郷士格になることもある。つまりそういう可能性もありうる。という意味で書いたつもりだったのですが。表現が適切ではなかったかもしれませんね。