今川義元 今川家の全盛期を作るも桶狭間で討死

今川義元と聞いてどんな人をイメージしますか?公家の姿をしたお殿様?

義元が生きた時代の戦国大名の中では天下人に最も近いともいわれたほどの人物。でも現代人のイメージは、公家かぶれの軟弱な殿様のイメージではないでしょうか。

でもそのイメージは現代人の作った小説やテレビドラマの影響なんです。当時

今川家は武田や北条といった有力大名と並ぶ大名でした。義元自身も東海一の弓取りといわれ、文武に優れた武将として知られていました。だから織田家の人々も恐れたんです。単に数が多いだけの問題ではなかったんですね。

今川義元の実像について調べてみました。

 今川義元のおいたち

名 前:今川義元(いまがわ よしもと)
通称・官名:治部大輔
幼 名:芳菊丸
法 号:栴岳承芳(せんがくしょうほう)
生 年:永正16年(1519年)
没 年:永禄3年5月19日(1560年6月12日)
父:今川氏親
母:寿桂尼(中御門宜胤の娘)
正室:定恵院(武田信虎の娘)
側室:井伊直平の娘(後に関口親永室)
子:今川氏真、一月長得、嶺松院(武田義信室)、隆福院、牟礼勝重室

今川義元は今川氏親の5男として生まれました。
母親の寿桂尼は氏親の正室。京の公家・中御門宜胤の娘です。中御門家は公家の中では中流の家ですが藤原家の一族でしたし、宜胤自身も歌人として高名でした。

そんな家風で育った義元も公家風の文化に馴染んでいたのは間違いありません。

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今川家当主になるまでの義元

今川義元の幼名は芳菊丸。今川氏親の5男でした。兄・氏輝が家督を継ぐことになっていたため4歳で駿河国の善得寺(現在の臨在寺・静岡県静岡市葵区)にあずけられます。

名を栴岳承芳(せんがくしょうほう)と改めました。太原雪斎が教育係となり、彼のもとで修行をしました。承芳は太原雪斎とともに京に行き有力な禅寺の京都五山で学びました。

しかし、兄・氏輝が亡くなり後継者争いの当事者になってしまいます。

母・寿桂尼や今川家重臣は承芳を復帰させ跡継ぎにすることにしました。承芳は将軍・足利義晴から”義”の文字をもらって”義元”と名乗ります。

今川家の後継者争い、花倉(花蔵)の乱

天文5年(1536)。今川氏輝が24歳の若さで亡くなりました。しかも弟の彦五郎も同じ日に亡くなりました。突然二人の息子が亡くなってしまいました。死因は不明ですが暗殺の可能性が疑われています。氏輝には跡継ぎがいません。

氏親の息子はまだ二人いました。

正室・寿桂尼の息子・栴岳承芳(せんがくしょうほう)。側室・福嶋安房守助春の娘が生んだ・玄広恵探(げんこうえたん)です。二人とも出家していたのでした。

寿桂尼や重臣は自分の息子・栴岳承芳を世俗に戻して”義元”と改名。家督を継がせようとします。しかし、有力家臣の福島氏らが反対しました。一族の娘が生んだ玄広恵探を担いで挙兵します。

寿桂尼が側近だった福島越前守(福島正成と同一人物ともいわれます)を通して説得を試みましたが、福島氏を中心とする恵探派は聞き入れません。

しかも恵探派は駿府の今川館を襲ってきました。今川館の守りは固く恵探派を撃退します。

義元は北条氏綱の協力も得て恵探派の方ノ上城を落としました。恵探の立て籠る花蔵館を攻めます。恵探は城を捨てて瀬戸谷へ逃げましたが、逃げ込んだ先の普門寺で自害しました。

玄広恵探は戦いの前は花倉の遍照光院にいました。最後の戦いになったのも花倉城でした。そのため「花倉の乱(花蔵ともいいます)」と呼ばれます。

今川家当主になった義元

天文5年(1536)。今川家当主になった義元は、自らの教育係だった太原雪斎を軍司(顧問)に迎えました。内政・外交・軍事のさまざまな場面で雪斎の助言を受けたようです。

天文6年(1537)。義元は武田信虎の娘を正室に迎えます。争っていた武田氏と同盟を結んだことになります。氏輝までの時代は今川家と武田家は争っていました。氏輝の代で関係の修復がおこなわれたものの、本格的な同盟は義元の代になってからでした。

しかし、武田氏と同盟を結んだことでそれまで友好関係を保っていた北条氏が反発。家督相続に協力してくれた北条氏綱を敵に回すことになってしまいました。北条氏綱・氏康は駿河の駿東郡、富士郡を攻撃してきました。

さらに恵探派の一員だった堀越氏延が見付端城(静岡県磐田市)で挙兵します。義元は家臣の天野氏を派遣して鎮圧しました。反今川だった井伊氏も抵抗しますが服従することになります。

花倉の乱で混乱していた駿河国は北条の攻撃から領内を守ることができずしばらく駿東郡、富士郡が占領されたままになりました。「河東一乱」。

駿河の東を北条に占領された義元ですが、駿河・遠江の領内を安定させるとともに三河への進出をはかります。

三河へ領土拡大・織田との対立と松平氏を支配下にする

三河では一時・松平氏が勢力を伸ばしていました。天文4年、尾張の織田氏との戦いの中、松平清康が急死。織田信秀が勢力を伸ばしていました。松平家は強力なリーダー不在で分裂。義元は松平家の取り込みを図ります。

天文9年(1545)。松平清康の息子・広忠を助け三河・牟呂(室)城主としました。のちに広忠は岡崎城の松平信定(広忠の大叔父)を降伏させ岡崎城主になりました。

天文11年(1547)。甲斐の武田信虎が娘婿の義元に会いに来ました。しかし、信虎の息子・晴信が反乱を起こし信虎を甲斐に入れませんでした。義元は信虎を預かりました。その一方で、晴信とも良好な関係を保ち武田との同盟を維持しました。

天文14年(1535)。上杉憲政と手を組み北条軍を挟み撃ちする計画をたてました。今川と上杉の挟み撃ちになった北条は戦力を分断されます。この戦いで今川軍は北条軍に勝利。行き詰った北条氏康は武田晴信に仲介を求めます。北条は占領していた東駿河を今川に戻すことで合意しました。その後、上杉憲政は北条氏康の反撃にあって敗退するのですが、ひとまずは今川亮の東は安定を取り戻します。

天文14年(1535)。岡崎城の松平広忠が織田信秀に攻められたので援軍を求めてきました。援軍を出す条件として人質を求めます。松平家から人質として出されたのが竹千代(徳川家康)でした。ところが竹千代を護送していた戸田康光が裏切って織田家に届けてしまいました。戸田康光は一族の者が義元に滅ぼされたため反乱を起こしたのでした。怒った義元は戸田家を滅ぼしました。

天文17年(1548)。義元の三河進出に危機感を持った織田信秀が三河に攻めてきました。義元は軍司の雪斎を大将、重臣・朝比奈泰能を副将として派遣して織田軍を撃退しました。(小豆坂の戦い)。ところがこの戦いで松平広忠が死去。松平家は跡継ぎがいなくなります。

天文18年(1549)。義元は支配者のいない西三河に軍を送り西三河を今川家の支配下に置きます。しかし岡崎城主は不在のまま。そこで、織田軍にいる竹千代を奪還する事にしました。織田信秀の長男・信広の守る三河国安城城(安祥城)を攻めます。この戦いで信広を生け捕りにしました。さらに織田軍も撃退し三河国を今川領としました。このときも雪斎の采配でした。

竹千代と織田信広を人質交換し、竹千代は今川の人質となりました。

今川・武田・北条の三国同盟

一方、義元は北条家とも関係修復を図りました。俗説では富士郡に今川義元、北条氏康、武田信玄が集まったとされていますが実際には本人が集まったわけではありません。それぞれの娘を嫁がせるというものでした。この交渉をまとめたのが太源雪斎だといわれます。

天文21年(1552)。今川義元の娘・嶺松院が武田信玄の息子・義信と結婚。
天文22年(1553)。武田信玄の娘・黄梅院が北条氏康の息子・氏康と結婚。
天文23年(1554)。北条氏康の娘・早川院が今川義元の息子・氏真と結婚。
こうして甲駿相三国同盟が成立しました。

弘治元年(1555)。武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)との間で第二次川中島の戦いでは両者を仲介して和睦させました。

永禄元年(1554)。義元は家督を氏真に譲ります。駿河・遠江の支配は氏真に任せました。義元は三河の安定と尾張の攻略に取り掛かります。尾張の鳴海城、大高城を占領しました。

独立宣言

天文21年(1552)。父・今川氏親の作成した分国法「今川仮名目録」を改定。主に家臣を統制するための項目を追加しました。これにより室町幕府の影響の及ばない独立した大名の治める土地であることを宣言したのです。

氏親の代から実質的に戦国大名になっていた今川家ですが、はっきりと幕府の力の及ばない国だと宣言することで名実ともに幕府から独立した大名になったのです。

義元の最後・桶狭間の戦い

永禄3年5月10日(1560)。義元は25000の大軍を率いて駿河今川館を出ました。

5月18日。三河・尾張の国境を越えて尾張の沓掛城に入りました。
5月19日。未明から織田方の砦に対して今川軍の攻撃が始まりました。今川本体5000の兵をともない義元は沓掛城を出ました。大高城が目的でした。途中の桶狭間山で休憩ととっていると突然、織田信長の部隊に攻撃されます。義元が休憩をとっていたのは見晴らしの良い山でしたが、当日は豪雨でした。雨にさえぎられて今川軍は織田軍の接近に気が付きませんでした。突然の襲撃に混乱する今川軍。義元も必死の抵抗を試みました。最初に切りつけてきた服部小平太は退けましたが、続いて襲ってきた毛利新介に打ち取られました。

大将の打ち取れた今川軍は大混乱に陥ります。この戦いでの今川軍の犠牲者は3000ともいわれます。井伊直盛、松井宗信ら領主・城主クラスの武将も打たれました。

義元の首は織田に奪われました。鳴海城で戦う岡部元信との交渉に使われます。元信は義元の首と引き換えに鳴海城を明け渡しました。

今川の損害が大きいのは従来言われるほど今川の兵力が大きかったわけではなく、比較的戦力差が小さかったこと。織田軍が精鋭ぞろいだったのに対して、このとき義元が率いていた今川軍は雑兵も多く練度が低かったことなどが考えられます。この時、義元が率いていたのは5000ほどでした。練度差と天候、地の利を考えれば決して勝てない戦ではなかったのかもしれません。

しかし、天下に最も近いといわれた義元の死は戦国の世に大きな影響を与えました。

このあと、西三河の松平元康(徳川家康)が独立。東三河や遠江の今川領各地で反乱がおこり始めます。武田信玄が今川との同盟を破棄。領内の混乱を立て直すだけならまだしも、武田と徳川に挟まれて領地を奪われることになります。義元の後を継いだ氏真はその窮地を立て直すことができず、永禄12年(1569)。今川家は滅亡します。

義元は暗愚だったの?

桶狭間の戦いの影響で今川義元は公家かぶれの無能な武将と思われがちです。

駿河・遠江・三河の三国を持ち。当時最大級の勢力を持っていたのは間違いありません。太源雪斎という有能な軍師がいたとはいえ、義元自身も家臣団をまとめる力と適切な忠告を取り入れ判断する決断力がなければ北条、武田、織田という勢力がひしめく中で領土拡大はむつかしかったでしょう。家臣を統制するための法律を作り、領国経営を進め。楽市楽座も信長よりも早い時代に行っていました。経営者としても有能な一面を持っていました。

戦国時代、応仁の乱で荒れた都から地方の有力大名のもとへ公家がやってくることは珍しいことではありませんでした。大名も公家風の文化をステータスや教養として受け入れていたのです。地方の武士にとって京の文化はあこがれでした。当時の人にとって公家文化=都の文化でした。地方の人が都会にもつあこがれと似たようなものでした。

武田家は京から公家を招き歌会を開いていました。上杉謙信も源氏物語を読み公家の文化や習慣を研究していたといいます。織田信長や豊臣秀吉も能や舞を好みました。

もちろん、今川家は足利家につながる名門ということで他の大名以上に公家文化に馴染みやすい家でした。関東に幕府を開いた鎌倉幕府や江戸幕府が、武者風の気風を好んだのに対して。都に幕府を置いた室町幕府が公家風を好んだのに似ています。今川家も足利家の末裔ですから足利将軍家の気風が伝わっているのかもしれません。

現代でも今川義元が胴長短足で生涯があったので寺に入れられたととあり。太りすぎで馬に乗れないと紹介されることはありますが。江戸時代中期につくられた作り話なので信用はできません。相続争いを避けるため大名の子が寺に入るのは当時としては当たり前のことでした。織田軍の記録では義元が馬に乗ってる姿が目撃されています。

今川義元が無能な公家かぶれのイメージは江戸時代に作られ、現代のテレビや小説で広まったといえます。

文化人の気風を受け継いだ後継者

じつは公家風の文化人としての性格は義元よりも息子の氏真に強く出ています。公家文化にのめりこみすぎて政治をおろそかにしたことが今川家の滅亡を速めたことになったかもしれません。しかし、その氏真も大名としての地位を失った後も文化人として生き続けました。今川家は高家として江戸時代も生き残ったのでした。

主な参考資料
戦国大名大全 全大名系譜付。有力大名は詳細家系図も! (廣済堂ベストムック)
歴史人別冊 戦国武将の全国勢力変遷マップ (ベストムックシリーズ・76)
一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史(SEIBIDO MOOK)
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歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯,洋泉社MOOK 歴史REAL
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