大野 治房・豊臣家生え抜きの武闘派。将軍秀忠の陣に迫る

大野 治房。大野家というと兄の大野治長が有名です。
治房はなぞの多い人物ですが、大坂の陣では強硬派で最後まで幕府との戦いを主張しました。

あまり知られていませんが、大坂冬の陣岡山口の戦いでは意外と善戦しており、一時は将軍・徳川秀忠の陣に迫る働きを見せました。

秀頼時代の豊臣家では数少ない戦場での働きに活路を見出すタイプの武将でした。

大野 治房とはどんな人だったのでしょうか。

 大野 治房(おおの はるふさ)

名前:大野 治房(おおの はるふさ)
通称:主馬(しゅめ)、道賢、道犬(どうけん)
生年:不明
没年:不明・慶長20年(1615年)?

父:大野定長 
母:大蔵卿の局

兄弟:兄・治長、弟・治胤・治純

兄とともに豊臣秀吉、秀頼に仕えました。治房は秀頼の小姓として仕えたといわれます。

慶長19年からの大坂の陣では豊臣家の直参家臣として兄・治長らがたてた作戦を実行する役目を担いました。作戦をめぐっては浪人達と意見が対立することもありました。

大坂冬の陣

治房は船場の砦を守りました。

11月19日以降、他の砦が次々と攻め落とされました。しかし治房の砦にはまだ幕府軍は押し寄せていません。

11月末、大野治長ら上層部は大坂城に兵を集め籠城戦を決めます。

治房は「まだ一戦もしていないのに撤退はできない」と拒否します。

11月30日。その後も治長からは何度も軍議を開くので城に戻るようと使者がきます。治房は仕方なくに大坂城に行きました。しかし砦を留守にしている間に砦近くの家に火をつられ兵が撤退してしまいます。無理やり撤退させるため治長が命令したのでした。その後、砦は幕府軍の蜂須賀隊に占領されてしまいました。幕府軍は大野治房を見かけだおしと嘲笑ったといいます。その噂は大坂城の治房にも届きました。このとき以来治房は兄・治長を恨むようになったといわれます。

12月、大坂城は完全に包囲されました。
治房は大坂城西側を守っていました。

12月4日に真田丸・城の南側で大きな戦闘がありましたが、その後は砲撃が中心の膠着状態になります。射程の長い大砲で攻撃する幕府軍に対して豊臣方は劣勢になっていきました。兵の指揮は下がるばかりでした。

治房は汚名返上のためと、城が包囲されて兵の士気が下がることを恐れ、幕府軍への襲撃を計画します。治房の提案は後藤基次からも支持を得ます。

12月15日。治房は秀頼の許可をもらって塙直之らとともに出陣しました。
12月16~17日。幕府側の蜂須賀軍のいる本町を目標に定めて夜襲をかけます。本町の中村重勝の部隊に攻撃をしかけ重勝を打ち取り中村隊を撃退します。この勝利で兵の士気は上がりました。

しかしこのとき治長らがすでに和議を進めていました。20日和議は成立します。

和議の期間に深まる兄弟の溝

大坂城の堀は埋められてしまいました。それを見た浪人達の中には城を去っていくものが増えました。

治房は兄・治長のやり方に次第に不満を高めていきました。豊臣家生き残りのために幕府と交渉を続ける治長とは意見が食い違うようになります。毛利勝永ら浪人達と共に幕府との戦いを主張しました。

もともと和議には反対だった治房は幕府との戦いがあると考え再び浪人の募集を行います。それもまた治長との仲を悪くする原因となりました。

4月9日。治長が大阪城で何者かに襲撃され怪我をします。襲撃したのは成田勘兵衛の家臣と分かりました。勘兵衛は治房の部下です。勘兵衛は尋問されることになりましたが、その前に屋敷に火を放って自害してしまいました。治房の命令だったのかどうかは不明なままです。

その後、幕府との交渉は決裂。治房の影響力が大きくなりました。治房が望んだとおりの戦いになりました。

大坂夏の陣

郡山城の戦い

4月26日。治房は紀伊大和方面から迫る幕府軍を迎え撃つために2000の兵で出陣。幕府方の大和国郡山城(奈良県大和郡山市)を攻めます。郡山城を守る筒井軍は戦に慣れていませんでした。夜間たいまつを焚いて進軍してくる治房たちの部隊を3万の大軍を間違えて城を放棄してしまいます。
治房は郡山城に残っていたわずかの兵を討ち取って城の占領に成功します。
その後、紀伊国の浅野長晟を討つため移動します。

樫井の戦い

4月29日。大野治長は和泉の農民を扇動し一揆を起こさせようとします。浅野攻撃に参加させるためでした。治房は一揆軍の蜂起を合図に浅野軍に奇襲攻撃をかけるつもりでした。ところが、一揆を扇動するはずだった治長の家臣が捕えられ一揆は失敗します。

また、大野治房隊の先方を務めていた塙直之、岡部則綱が勝手に戦闘を始めてしまったうえに、本隊と引き離されて孤立してしまいます。驚いた治房は急きょ駆け付けますが、すでに浅野軍は撤退した後でした。この戦いで塙直之討ち死に。

その後、5月6日まで堺の町をめぐって浅野勢と戦闘になります。戦いの最中、弟の大野治胤が堺の町に火をはなちます。これが治房の命令だったのか、治胤の独断だったのかはわかりません。

天王寺・岡山の戦い

5月6日。幕府軍との決戦に挑みます。

治房は岡山口方面の総大将として出陣しました。
天王寺口で戦いが始まった後、岡山口でも戦いが始まります。大野治房達の部隊は幕府方の先方、前田利常隊を攻撃。前田隊を崩すと徳川秀忠の陣めがけて突撃しました。旗本の土井利勝隊も崩れ秀忠本陣に迫ります。

将軍・徳川秀忠は味方の劣勢ぶりに自ら出陣しようとしますが、立花宗茂は全体としては勝っているのでその必要はないというのです。

治房はさらに突撃を続けました。
秀忠は陣を後退させようとします。しかし立花宗茂は敵はもう疲れているのでその必要はなく、むしろ兵が動揺するので踏みとどまるべきと秀忠に進言しました。

事実、治房は善戦していましたが幕府軍も盛り返してきました。治房は何度が突撃を試みるも(一説には4回)、数に勝る幕府軍におされて劣勢となります。

圧倒的兵力の差に不利とみた治房は敗残兵をまとめて大坂城に撤退します。しかし、大坂本丸城はすでに出荷して手が付けられませんでした。治房は秀頼の息子・国松をつれて大阪城を脱出しますが、幕府軍に捕らえられてしまいます。

その後、自害したとも言われますが。生き延びたともされます。

慶安2年(1646年)、大野治房が生きているといううわさが広まり幕府は捜索しています。その時も見つかっていません。幕府も治房を危険な人物としてとらえていたということなのでしょう。それだけ秀忠に与えた衝撃は大きかったのです。