大蔵卿局・最後まで付き従った茶々の乳母

五七の桐
五七の桐

秀吉亡き後、茶々を支えた女性がいます。
大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)。
浅井家の時代から仕える茶々の乳母でした。

ただの乳母ではありません。十代で母・お市を亡くした茶々にとっては母親のような存在でした。茶々がどの家臣よりも信頼していたのが大蔵卿の局だったかもしれません。

大蔵卿の局も生涯、茶々に尽くしました。

そんな大蔵卿の局とはどんな人生を歩んだ女性だったのでしょうか。

 

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大蔵卿局はどんな人?

 

大蔵卿局は丹波の国の地侍・大野定長の妻。本名は分かっていません。もともとは浅井家に仕え、茶々の乳母となりました。

実は茶々の乳母には饗庭局(あえばのつぼね)という人もいました。この人も大蔵卿局といっしょに茶々が側室になった後も仕えてます。

元亀元年(1570年)、浅井家が織田家に滅ぼされるとお市や茶々らと共に脱出。茶々とともに過ごします。

天正10年(1582年)、信長の死後。お市が柴田勝家と再婚し茶々をつれて越前北の庄城(福井県福井市)に行くと大蔵卿の局も同行します。

天正11年(1583年)、柴田勝家が羽柴秀吉との戦いに敗れ北の庄城は落城。大蔵卿局はお市から三人の娘を託され茶々達とともに脱出します。

 

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豊臣時代の大蔵卿局

 

茶々が秀吉の側室になると大坂城に入ります。茶々が鶴松を出産し淀城に移ると大蔵卿の局も従います。しかし、鶴松は3歳で死亡してしまいました。嘆き悲しむ茶々を支えたのが大蔵卿局でした。

文禄2年(1593年)、茶々は(淀殿)の秀頼を出産します。その後、伏見城に移ります。大蔵卿の局は秀頼の養育係を務めました。

慶長3年(1598年)秀吉が亡くなります。秀吉の生前は北政所とその側近・孝蔵主が大坂城の奥を仕切っていました。秀吉の死後は北政所と孝蔵主は大坂城をでて京に移り住みます。

かわって淀殿と秀頼が大坂城に移り住みます。大蔵卿局も従いました。大蔵卿局は淀殿の側近として大坂城の奥を仕切る立場になりました。息子の大野治長らとともに淀殿を支えていくことになります。

饗庭局も淀殿について大坂城に来ました。たびたび茶々の使者として派遣されているので、実際には大蔵卿局だけが重用されたわけではないみたいです。でも奥の最高責任者となったのは大蔵卿の局だったようです。

 

 

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方広寺の鐘問題で家康に会う

慶長19年(1614)年。秀頼が進めていた方広寺の大仏殿の式典を巡って問題が発生。秀頼は責任者の片桐且元を釈明のために派遣しますが、家康に合わせてもらえず。問題は進展しませんでした。

淀殿は大蔵卿局を家康のいる駿府城に派遣します。大蔵卿局は阿茶局を通して家康に会いました。その場で大蔵卿局は、家康のもてなしをうけます。方広寺の鐘の件をもちだしても「苦しからずと」問題にせず、むしろ秀頼や淀殿を気遣う言葉をかけてきたのでした。謝罪の言葉を用意していた大蔵卿局としては拍子抜けするようなもてなしぶりでした。

大蔵卿局と片桐且元は大坂城に戻る途中、近江土山にて合流し。交渉の結果を話し合いました。

片桐且元からは「秀頼の駿府、江戸への参勤」「淀殿の江戸に住まわせる」「秀頼が大坂を出て他国へ移る」いずれかを選ばないと家康は納得しないだろうという言葉を聴かされました。

大蔵卿局は自分に対する家康の態度との違いに驚きます。且元よりも先に大坂城に戻り、淀殿に報告します。

これを効いた淀殿は激怒。大蔵卿局や息子の大野治長たちも且元に対する不信感を持ちます。側近の中には且元を暗殺しようとするものまで出ました。身の危険を感じた且元は大坂城を出て行ってしまいます。

そして、慶長19年11月19日。豊臣家と徳川幕府との戦いが始まります。後にいわれる大坂の陣です。

 

幕府との和睦交渉

12月14日。淀殿は和睦を決意。淀殿の意向をうけて大蔵卿の局は息子の治長、有楽斎とともに幕府と和睦の交渉を行います。

大蔵卿局は常高院(お初・淀殿の妹)や有楽斎と共に和平交渉にのぞみます。相手は阿茶の局と本多忠純。常高院の義理の息子・京極忠高の陣で会談が行われました。このとき、織田有楽斎と大野治長の子を人質として差し出す条件を出し秀頼の命を助けるように求めました。大蔵卿局としては孫を差し出してでも秀頼は守りたかったのです。

その後、阿茶の局と板倉重昌が大坂城内で淀殿、秀頼と会談。和平交渉は成立しました。
しかし、家康は再び兵を集めます。

 

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茶々とともに最期を迎える

5月6日。幕府軍との戦いがふたたび始まります。堀を埋められた大坂城には徳川の大軍を防ぐ力はありませんでした。

5月8日。大蔵卿の局は淀殿、秀頼と共に自害して果てました。

茶々の経験した三度の落城に立ち会ったのが大蔵卿の局でした。茶々を育て、ともに最期を迎えました。大蔵卿の局の半生は茶々のためにあったと言えるでしょう。

 

大蔵卿の局には4人の息子がいます。
大野治長、大野治房、大野治胤、大野治純です。

治長、治房、治胤は豊臣家に仕えました。
治純は徳川家に人質に出していたこともあり徳川家に仕えました。

 

大河ドラマ「真田丸」での大蔵卿についてはこちらも参考にしてください。
「真田丸」大蔵卿局。なんであんなに偉そうなの?そんなに権力あったの?

 

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