深芳野:斎藤義龍の母は美濃一の美女だった

にとうなみ

深芳野は斎藤道三の側室。そして斎藤高政(一色義龍)の母です。

美濃一の美女といわれた深芳野は、最初は土岐頼芸の愛妾でした。しかしその美しさにめをつけた斎藤道三の側室にされます。

後の世には斎藤高政は斎藤道三の子ではなく土岐頼芸の子という噂まででました。

深芳野とはどんな人だったのでしょうか。

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深芳野とは

名 前:深芳野(みよしの)
生 年:不明
没 年:不明
父:稲葉通則 または 一色義清
母:一色義遠の娘
立場:土岐頼芸の妾 → 斎藤道三の側室
子:斎藤高政、斎藤喜平次?

父は稲葉通則。弟に稲葉一徹がいます。
または丹波国守護の一色義清(左京大夫)ともいわれます。

母は尾張知多分郡の守護をつとめた一色義遠の娘。

「翁草」では身長が六尺(約182cm)あったといわれます。当時としてはかなり大柄な女性だったようです。美濃一の美女といわれます。

時期はよくわかりませんが、美濃国守護の土岐頼芸の愛妾になりました。

大永6年(1526年)12月ごろ。長井規秀(後の斎藤道三)の側室になりました。

深芳野は大変美しかったといいます。そのため道三が側室にしたいと願って土岐頼芸から譲り受けたと言われます。道三が頼芸に対して強引に深芳野を譲るように迫ったともいわれます。

大永7年6月10日(1527年7月8日)。斎藤義龍を産みました。

その後、明智光継の娘・小見の方が道三の継室になり濃姫を産みました。そのあとに生まれた孫四郎、喜平次の母も小見の方といわれます。喜平次が一色右兵衛大輔を名乗っているので喜平次は深芳野の子ではないかともいわれます。

その後、深芳野がどうなったのかはよくわかっていません。

斎藤高政は道三の子ではない?

深芳野の息子・高政は斎藤道三の息子ではなく、土岐頼芸の息子だという話があります。

深芳野が道三の側室になって7ヶ月後に義龍が産まれたとされるため。人の妊娠期間は9ヶ月なので計算があわないからです。高政が道三と戦い討ち死にさせました。

そこで「実の父とは思ってはなかったのではいか」という噂が出る原因になったようです。でも、高政がご落胤という話は江戸時代に造られた資料に出てくる記述なので作り話の可能性が高いです。

道三と同じ時代の人は高政は道三の子だと信じていたようです。ただし道三は側室の子の長男・高政は愚か者。正室の子の次男・孫四郎、三男・喜平次は賢いと思って弟たちを可愛がっていました。高政が父を快く思っていなかったとしてもおかしくはありません。

また道三のやりかたに稲葉氏が不満をもち、稲葉氏と道三の仲が悪くなったことが稲葉家の血を受け継ぐ高政を遠ざける結果になったのかもしれません。

 

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