佐々木営業部復活までの道のり(べっぴんさん・坂東営業部のモデル)

佐々木八十八が作り上げた佐々木営業部。第二次世界大戦中に江商(総合商社兼松)に吸収されてしまいます。
戦後、佐々木営業部は復活しました。佐々木八十八のもとで戦前の佐々木営業部を支えていた尾上説蔵の息子・尾上清が復活させたのでした。復活した佐々木営業部はやがてレナウンと名前を変え、日本を代表するアパレルメーカーとなります。

佐々木営業部は、朝ドラ「べっぴんさん」で坂東営業部のモデルとなった会社です。
復活した佐々木営業部の社長となった尾上清は、ドラマで高良健吾演ずる野上潔のモデルとなった人物です。尾上清と佐々木営業部の物語はドラマにもまけないくらい興味深いです。

戦後、佐々木営業部が復活するまでの道のりを紹介します。

 

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終戦後の尾上清

昭和20年8月15日(1945年)。終戦の日。兵役中の尾上清は宮古島にいました。
復員した清は江商で働き始めます。衣料部か営業部といわれます。部長職で江商に雇われました。

昭和21年(1946年)春。佐々木八十八(坂東五十八のモデル)のもとを訪れた清は坂野惇子(坂東すみれのモデル)と会います。ここで生活に困って相談に来ていた惇子に対して、清は「これからは女性も自分で生きていくべき」といいました。

昭和21年(1946年)4月。坂野通夫(坂東紀夫のモデル)が帰国します。
昭和21年(1946年)5月。坂野惇子は疎開先の岡山から神戸に戻り通夫とともに暮らし始めます。

昭和21年ごろ。東京編織株式会社が活動を再開します。東京編織は佐々木営業部の製造部門として作られたレナウン・メリヤス工業が前身です。佐々木営業部の系列で生き残った数少ない会社でした。戦時中は軍需用の衣服を生産していました。戦後は尾上清と同期入社の鈴木達夫が社長となり、縫製工場として活動を再開していました。東京編織は戦争でミシン以外の設備を軍に出していたため、大規模な生産設備がありません。このころは小さな町工場のようなものでした。

昭和22年(1947年)1月。清は京都で暮らしている八十八に呼び出されます。清が行ってみると八十八はとくに用事があるわけでもなく、父・説蔵の話や佐々木営業部がにぎやかだったころの思い出話をするばかりでした。清はそんな八十八の様子をみて佐々木営業部がなくなったことを残念に思っている。もう一度復活させてほしいのだと察しました。

 

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佐々木営業部復活へ向けて動き出す

大阪に戻った清は江商に辞表を提出します。しかしそう簡単には退職させてもらえません。江商にとっても清は衣料部門を任せられる必要な人材なのです。しかし清の意志は変わりません。やがて江商は清を引き止めるのを諦めるしかありませんでした。

清はその間も佐々木営業部復活へ向けて動き始めます。

昭和22年2月。清は八十八と共に坂野通夫を説得し東京編織株式会社に入社させます。

清は大阪の心斎橋に有信実業という会社を立ち上げました(江商在籍中から作っていたとも言われます)。有信実業は物を仕入れて売るための小売店のようなものです。戦争から戻ってきた旧佐々木営業部の社員を引き受けていたといいます。

清は有信実業の活動を通して東京編織に設備投資をしようと考えていました。有信実業が営業部門で東京編織が製造部門のような形を思い描いていたようです。

石津謙介(岩佐栄輔のモデル)が有信実業に入社します。

清は佐々木八十八の長男・佐々木隆一に復活させる佐々木営業部の社長になってもらおうと考えますが、隆一に断られてしまいます。

 

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佐々木営業部の再開

昭和22年(1947年)9月。佐々木営業部再開。
本社は東京大伝馬町の旧東京佐々木ビル(江商ビル)の一角を借りての再開でした。大阪にも支店がありました。有信実業の店舗が佐々木営業部大阪支店になったともいわれます。

社長は尾上清、専務に清と同期入社の本間良雄、鈴木達雄。社員20数名というスタートでした。

有信実業は佐々木営業部の一部門となったようです。レナウン・サービス・ステーションになったのかもしれません。レナウン・サービス・ステーションを任れたのは石津謙介でした。

清は東京編織株式会社で働いていた坂野通夫を佐々木営業部に移籍させました。秘書や各部門を経験させます。将来の佐々木営業部を背負う人材として育てようとしていたのでした。
通夫が社長としての才能を発揮するのは佐々木営業部ではなくファミリアなのですが。さすがに尾上清といえども予想できなかったでしょう。しかしそれはもう少し先の話です。

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