真田信之(4)松代藩時代

関ヶ原の戦いの後、上田藩を収めることになった真田信之。

父・真田昌幸、弟・真田信繁(幸村)の影に隠れて現代人には知名度の低い人物ですが、意外と長生きしています。生き残ったがゆえの苦労もありました。ここでは、松代藩に写って以降の信之について紹介します。

松代上田藩の経営が安定してきたころ。

元和6年(1620年)小松姫が亡くなります。信之は「灯火が消えた」と嘆きます。徳川と真田家を結ぶ重要な役割を果たしていました。

その2年後。元和8年(1622年)。信之は幕府から松代藩への移動が命じられます。

移動命令に衝撃受ける

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左遷?

一説には将軍・徳川秀忠の嫌がらせとも言われます。上田城では徳川軍は二度、苦杯をなめさせられています。特に二回目の上田攻めでは秀忠自身が指揮をとり失敗、家康にひどくしかられるという嫌な思いがあります。

さらに1614年大坂の陣では上田藩主・真田信之の弟・真田信繁が大坂に味方して徳川軍と戦い家康を追い詰める働きぶりをみせます。上田藩としてはかなり 気まずい雰囲気になっていました。

世の中では真田が秀頼に忠義を尽くして徳川に一泡吹かせたとして話題になっていました。後の時代では「真田幸村」の忠義 は幕府も黙認することとなりました。しかし、戦の記憶を持つ者が多いこの時期では真田は徳川にとっては嫌な印象を受ける存在でした。

そんな中で徳川との縁をとりもつ小松姫が亡くなりました。

だから、秀忠は遠慮することなく上田から真田を追い出すことができるようになったとも言われます。

移動に腹を立てた信之が上田の領地に関係する書類を焼却処分した上に、上田城の植木や灯篭を松代に持っていってしまったとも言われますが、実際には引き継がれたようです。

栄転?

確かに真田正行・信繁は徳川に敵対していましたが、信之に落ち度があるわけではありません。

それに松代藩は交通の要所で徳川譜代の大名が治める大切な場所でした。つまり、信之は幕府からも重要な場所を任せられる信頼できる人物と考えられていたともいえます。

信之も家臣の出浦に「家の面目であり、何もいうことがないほど光栄だ」と書き送っています。

上田6万5000石から松代10万石へ加増しての移動となりました。沼田3万石は引き続き真田家のものとして認められます。真田家は松代と沼田をあわせて13万石の大名となりました。

10万石以上というのは大名にとってひとつのスタータスでした。10万石以下の大名には幕府からの命令は幕府の発行した書状が届きます。でも10万石以上の大名には将軍直筆の書状が届くのです。

真田家の菩提寺、長谷寺も松代に移されました。そのとき長国寺と名前を変えました。

移転に反対した家臣が離脱

ところが、家臣の中には土地を離れることを拒否するものが出ます。彼らはもともと地侍。主が変わってもその土地を守って生きていくのが自分達の生き方と考えている人たちです。位の高い家臣も含めて48人の家臣が信之のもとを離れました。

家臣の離脱は信之にとってはショックだったでしょう。しかし結果的にリストラしたのと同じことになり、直轄地の拡大と家臣団の再編成が進みました。

松代藩として再出発

信之が移った松代城はかつて海津城と呼ばれた城。川中島を支配するために重要な城でした。武田信玄と上杉謙信が争った地にある真田家にとってもゆかりのある城です。

松代藩に移っても、信之の時代は続きました。高齢の域にさしかかっていたいたものの、何度隠居願いを幕府に出しても却下されるのです。

すでに幕府は4代将軍家綱の時代になっていました。信之は戦国時代を知る数少ない大名でした。信之は「天下の飾(武士の鏡)」と言われ尊敬を集めていました。まだ若い将軍家綱も戦国時代を知る信之の話を聞くのが好きだったと言われます。

 お家騒動勃発・信之最後の大仕事

明暦元年(1656)。以前より幕府に申請してた隠居が認められました。信之91歳です。

すでに嫡男の信吉や、信吉の長男・熊之助が亡くなっていました。そこで松代藩は次男の信政に譲ります。ところが家督をついで2年後の万治元年(1658)に、信政が亡くなってしまいます。松代藩は信政の息子・幸道が継ぐことになりました。ところが幸道はまだ2歳。

これに反対するものがいました。沼田藩を継いでいた信利です。信利は信吉の次男でした。信之の長男の家系の信利はいずれ自分が松代藩を継げるものと思っていたようなのです。信利は幕府に訴え出たため大騒動となります。

結局、隠居していた信之が復帰して幸道の後見人なることで決着しました。沼田は松代藩から独立して沼田藩となりました。

しかし、お家騒動を収めてしばらくして信之は亡くなります。93歳でした。「生きするぎるほど生きた」と言って亡くなったといいます。

幸道の後見人は内藤忠興が努めました。

最後まで落ちつくことのできない苦難の多い人生だったといえるでしょう。華々しい活躍をした父や弟に比べると地味な存在でしたが、信之の苦労は戦国の世が終わっても続きました。家を守り、荒れ果てた領地を復興させ、傾いた領国経営を立て直すことに成功。上田から松城に映るときには20万両という大金をためていたとも言います。領主としても非凡なところを見せました。信之は戦場でも有能な武将でしたが、平和な時代にこそ必要な人物だったのかもしれません。

幕末~明治の松代藩

明治になって真田家伝来の家宝が開封されたことがありました。 信之の命令で中を絶対開けてはいけないという禁断の箱があったのです。常に4人の見張りを付けて厳重に保管していたものでした。その箱には信之が徳川家康 から貰った短刀が入っているといわれていました。しかしその中に入っていたのは、石田三成から送られた書状。関ヶ原の合戦の前に送られた挙兵を求める書状など。幕府に知られると謀反の疑いをかけられても仕方のないものでした。

家を残すため幕府に従ったものの、内心では快く思ってなかったのでしょう。

松代真田家は幕末まで続きます。8代藩主真田幸貫は老中にもなります。幸貫は佐久間象山を登用、幕末の志士達に大きな影響を与えました。

幕末期には、松代藩はいちはやく倒幕派の一員となり。戊辰戦争でも信濃の藩のまとめ役となり旧幕府軍と戦いました。

反徳川の精神は秘かに受け継がれていたのかもしれません。

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