寿桂尼(じゅけいに) 今川の全盛期を支えた女大名

今川

 

寿桂尼は今川義元の母として知られ、女大名ともいわれます。嫡男・氏輝亡きあと起こった今川家の家督争いでは三男の義元を当主に迎えました。桶狭間の戦いのあとも孫の氏真を支え続けました。女城主という点では直虎以上の力と実績を持つ女大名です。

寿桂尼とはどんな人だったのでしょうか。

 

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寿桂尼 のおいたち

 

名 前:不明
法 名:翠光院寿桂(すいこういんじゅけい)、後に長膳院と改名
通 称:大方(おおかた)、尼御台(あまみだい)
生 年:文明年間(1482年ごろ?)
没 年:永禄11年3月24日(1568年)?
父:中御門宜胤
夫:今川氏親
子:氏輝、彦五郎、義元、娘(北条氏康室)

 

寿桂尼の本当の名前は伝わっていません。

京の公家で中御門宜胤の娘として生まれます。中御門家は藤原北家の一族です。公家としては中流でしたが父・中御門宜胤は歌人としては高名でした。今川家は足利将軍家につながる名門で、京の公家とも親交が深い家でした。その縁で寿桂尼は今川氏康の正室となりました。

この時すでに氏康は36歳。晩年、氏康は中風を患い看病の日々が続いたようです。寿桂尼はよく看病したといいます。公家の出身でしたが、武家の習慣にもよく馴染んだといいます。氏親の亡くなる70日前に「今川仮名目録」ができましたが、寿桂尼が中心となってまとめたといいます。今川仮名目録とは今川家の発行した裁判の基準です。東国の武家が作ったものとしては最も古い規則だといわれます。

大永6年(1526)。夫・氏親が54歳(56歳との説も)で亡くなります。このとき剃髪して名乗ったのが”翠光院寿桂”という名前です。

息子の後見人として今川家を仕切る

今川家は嫡男の氏輝が家督を相続しました。当時の氏輝はまだ14歳。若く経験が浅かったので寿桂尼が後見人になりました。この時代寿桂尼は多くの文書を発行しています。氏輝の後見人として事実上の今川家当主として今川家を仕切っていました。

今川家と争っていた武田家と和睦したのも寿桂尼の働きかけによるものだとされています。

このとき発行した文書には寿桂尼の印が押されています。武将の発行した文書には花押(サイン)が抱えていることが多いです。寿桂尼は印を用いていたのでした。今川家に嫁ぐとき父親の中御門宜胤から送られたものだといいます。この印には「帰」と書かれていました。「嫁ぐ」という意味があり、今川家の人間になって幸せになってほしいという親心が込められているといいます。寿桂尼はその印を使い続けたのでした。

氏輝が成人したあとも、寿桂尼は氏輝を補佐し続けます。

花蔵の乱で義元を今川当主にする

ところが氏輝が24歳の若さで亡くなります。しかも弟の彦五郎も同じ日に亡くなりました。突然二人の息子が亡くなってしまいました。死因は不明ですが暗殺の可能性が疑われています。

寿桂尼に残された息子は出家した栴岳承芳(せんがくしょうほう)だけになってしまいます。すると側室の息子・玄広恵探(げんこうえたん)が祖父・福島安房守とともに挙兵。後継者争いが起こりました。

「花蔵の乱」と呼ばれるこの争いでは、寿桂尼は出家していた栴岳承芳を呼び戻して”義元”と名乗らせます。太原雪斎と協力して玄広恵探派を鎮圧。義元を今川家の当主にすることに成功しました。

寿桂尼が息子を裏切った?

ちなみに花蔵の乱の時、義元たちが恵探の立て籠る屋敷を攻撃した日に寿桂尼が恵探派に会いに行ったと言われます。そのため、寿桂尼が息子の義元を裏切ったという説があります。しかし寿桂尼が実の息子を裏切って側室の子を助ける根拠は何でしょうか?

今川家は寿桂尼を通して京の公家とのつながりがありました。ところが、京で独自に人脈を作った義元・雪斎が帰ってくると寿桂尼の影響力が小さくなります。だから義元を裏切って、恵探に味方したというのですね。

確かに寿桂尼の側近には恵探派に加わっている福島氏の一族もいました。その人脈を使って穏便に解決したかったのでしょう。「義元は足利将軍家も認める今川家の跡継ぎ、無駄な争いはやめよ」といいたかったのかもしれません。

殺し合いは避けて穏便に解決したい寿桂尼と、実力行使も止む無しの義元・雪斎との間に意見の違いはあったかもしれません。だからといって実の息子(しかも英才教育済み)がいるのに他人の子供を跡継ぎにしたい母親がいるでしょうか?側室の子が今川家を継いだら寿桂尼の立場も危うくなりますよね。しかも義元は家督を継いだ後、寿桂尼の実家とも親しくしています。母子で争った形跡もありません。

雪斎が発言力・影響力を強めてきたといっても、義元を助けるために迎え入れたのですから想定済みのはず。たとえ寿桂尼としては内心面白くなかったとしても、息子を裏切る動機としては弱いように思えます。

おそらく寿桂尼の説得は不発だったのでしょう。交渉決裂になるとその日のうちに義元たちは恵探の屋敷を襲撃しました。

その結果、義元が家督を継ぐことができました。太原雪斎は義元を支えました。義元が今川家を治めた時代、寿桂尼の発行した文書は減っています。それなりに成長した息子がいる。優秀な側近もいる。母親がでしゃばる必要性は低くなったのだから当たり前ですよね。

公家出身ながら武家に馴染んで氏親を支えた頭のいい寿桂尼なら、そのくらいの判断はできたと思われます。

でもこの時代の寿桂尼の発行文書がゼロになったわけではありません。ときおり今川家の決定に影響を与えたようです。

義元が治めた時期、今川家は最盛期を迎えます。ところが一大事が起ります。

永禄3年(1560)。桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれます。

桶狭間で危機に陥った今川家のために再び表に出る

義元の突然の死は今川家存続の危機でした。

氏真はまだ若く頼りない部分がありました。寿桂尼は隠居生活を送ってる場合ではなくなりました。氏真を補佐して今川家の立て直しを行います。

井伊直親が謀反の疑いで処刑された後、息子の虎松は命を助けられました。このとき寿桂尼は幼い虎松には手を出すなと命令したといいます。氏親の処刑を命令した氏真も祖母の命令には逆らえなかったようです。このとき虎松が処刑されていたら、井伊直政は存在しなかったことになりますし徳川家を支えた井伊家もなかったことになります。

永禄6~8年ごろ隠居して龍雲寺に移り住みます。寿桂尼の生年ははっきりしませんが、おそらく70歳を超えた高齢だったと思われます。

一説には永禄11年3月24日(1568年)。駿府の館で亡くなったといいます。遺言により駿府の鬼門にあたる龍雲寺を墓所としました。死んでも今川家を守ろうとしたのです。

今川義元が亡くなった後、今川家はすぐに滅んだと思われがちですが。実際には持ちこたえていました。若い氏真だけでは持ちこたえられなかったでしょう。とくに太原雪斎が亡くなった後は寿桂尼の存在はますます大きくなったと思われます。武田信玄が今川領に攻撃してくるのも寿桂尼が亡くなった後でした。それを考えると寿桂尼の影響力の大きさが計り知れます。

公家出身でありながら、武家の中でたくましく生き抜いて今川家を守りぬきました。寿桂尼は女戦国大名と呼ぶのにふさわしいかもしれませんね。

 

主な参考資料
石田正彦,おんな城主 井伊直虎 その謎と魅力,アスペクト
楠戸義昭,この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎 PHP文庫
津田太愚,井伊直虎のことがマンガで3時間でわかる本 ,アスカビジネス

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