大坂の陣に集結した赤備え。武田から受け継いだ井伊と真田の赤い軍団

真田信繁(幸村)といえば赤い鎧。鎧や旗などの装備を赤色でそろえることから「赤備え」といいます。

大河ドラマ「真田丸」でも幸村が鎧を赤くするときに「武田の赤」。と言ってましたよね。なんで武田は赤なんでしょうか。

そもそもなんで鎧を赤くするんでしょうか?確かに赤は勇ましいイメージがあります。でも目立つから不利じゃないの?と思いますよね。でも勇敢な武将はそんな不利を覆して戦うものという考えもあったようです。当時の赤は貴重な赤い顔料で塗られていました。作るにもお金がかかるし、着る側にも覚悟がいるんですね。しかも赤備えをつけて戦った軍団が実際に強かったのです。こうして戦国時代、赤い鎧は最強部隊・精鋭部隊のイメージが定着していったんですね。

赤備えで有名なのは武田、井伊、真田。それぞれの赤備えを見ていきましょう。

 

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武田の赤は戦国最強の証

最初の赤軍団は次男坊の集まりだった

記録に残ってる中では最初に赤備えにしたのは、飯富 虎昌(おぶ とらまさ)だと言われます。武田信玄の父・信虎の時代から仕える重臣でした。「甲斐の猛虎」といわれる猛将でした。そんな彼が率いたのが赤備えの軍団でした。

虎昌は家臣の次男・三男ばかりで編成された切り込み部隊を作りました。この時代、家を継げるのは長男でした。次男以下は家を継いだ長男の家来になるか、他家に婿に行くか、戦場で手柄を立てて出世するしかありません。

だから彼らは出世したい一心で必死に戦ったのですね。虎昌は彼らをまとめて軍団をつくることで命知らずな切り込み部隊を作りました。その彼らに赤の鎧を着せたのです。赤い鎧は自分で勝手に作ることはできません。手柄を立てたものだけに許可される名誉な色だったのです。

家に帰れば肩身の狭い思いをしてる次男坊たちですから、重臣からスカウトされて特別待遇受けたら張り切りますよね。虎昌の期待通り、赤い鎧の次男坊軍団は戦場ではかなり強かったのです。

赤=最強軍団をイメージを決定づけた山県昌景

虎昌が亡くなった後、赤備え軍団を引き継いだのが弟の山県昌景(やまがた まさかげ)。山県家を継いだので名字は違いますが弟(甥という説もあります)です。昌景も虎昌におとらず強かったのでした。

信玄時代の武田家では馬場信春とともにツートップを務める重臣でした。信濃をめぐる戦いや、今川家、北条家の戦いで武田軍の主力として戦いました。山県昌景の軍団があまりにも強かったので、諸国の兵は赤い鎧をみると勇敢な者でも怯えたといいます。

武田家では山県昌景意外にも、小幡信貞、浅利信種も赤備えの部隊を持っていました。いずれも勇敢な武将でした。

武田家の赤備えがあまりにも強かったせいで、赤備え=最強部隊・精鋭部隊の印象が残りました。

 

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武田の赤を引き継いだのは「赤鬼」井伊直政

井伊直政の鎧

武田家滅亡後。赤備えの軍団は消滅するかに思えましたが。徳川家康が目をつけました。山県昌景達、赤備えを率いた武将はすでに亡くなっていましたが、彼らの下で戦った勇敢な兵たちは残っていました。そんな優秀な人材を家康が野放しにするはずがありません。問題は、新しく雇った元武田の兵たちをだれが率いるかです。これに目を付けたのが、徳川四天王のひとり・榊原康政でした。勇敢で知られる武田の赤備えをぜひ自分の配下に加えたいと直訴したのです。ところが家康は重臣の希望を却下。

家康は赤備えの兵をまとめて井伊直政の部下にしました。直政は家康の小姓から出世して活躍を続けていました。家康も直政には大いに期待していたようです。ところが井伊家は没落しかけていたので大勢の兵はいません。家康は直政に武田家に仕えていた兵を手に入れるとそっくりそのまま直政に預けました。

直政自身もまた「鬼」といわれるほど厳しい武将でした。鬼に率いられた赤備えの部隊もまた大活躍。井伊直政が率いた赤備えのデビュー戦は、豊臣軍相手の小牧長久手の戦いでした。ここでいきなりの大活躍で「井伊の赤鬼」は全国の大名から恐れられる存在となりました。

以後、彦根藩に移った井伊家でも赤備えは漬け継がれます。ひこにゃんの鎧が赤いのはそのためです。

 

ところが、幕末の長州征伐では彦根藩の部隊は長州軍に負けてしまいました。鮮やかな赤い鎧が目立つため鉄砲の的になったからだといいます。赤い鎧は槍や刀で接近して戦うからこそ怖さを発揮できるんですね。

 

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真田信繁も武田の赤を受け継いだ

大坂の陣で真田信繁が使ったのも赤備えでした。でも、もともと真田家の鎧は黒でした。一般には大坂に入った真田信茂は最初から赤の鎧を着ているイメージですが、鎧を赤くしたのは夏の陣だけだといわれています。冬の陣では黒い鎧のままでした。

 

真田信繁の鎧

大坂夏の陣では幕府の大軍相手に不利な野戦をしなくてはいけなくなりました。信繁は兵の鎧を赤で統一します。武田の武勇にあやかり兵の士気をあげるためだといわれます。

一説には豊臣秀吉に仕えていた1590年代には真田信幸が家臣に鎧と旗を赤色にするようにとの命令を出しています。真田昌幸がまだ元気なころなので、武田の赤を引き継いだのは自分たちだという自負があったのかもしれません。

信繁はそんな父の思いも引き継いだのかもしれませんね。

 

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大坂の陣では三つの赤備えが集結

大坂の陣は武田の赤、井伊の赤、真田の赤がそろった珍しい戦いとなりました。

大坂冬の陣では真田丸を攻めたのは、前田、井伊、松平の兵です。もちろん、真田丸を攻めた兵の中には赤備えの兵がいたはずです。

井伊直孝(直政の息子)の率いる彦根藩の軍団は鮮やかな赤い鎧を身に着けていました。徳川家康は平和な時代になり、実戦を経験せず派手になっていく赤備えを見て落胆したといいます。しかしその中に使い古された鎧を身に着ける者たちがいました。それを見つけた徳川家康は「あれは甲州からの家臣団だろう」といい、その通りだとわかると「あれこそが本当の赤備えだ」と言ったといいます。家康は自身も三方が原の戦いで大敗し、武田の赤には特別な想いがあったのでしょう。

しかし大坂夏の陣では家康が武田に大敗した三方が原以来となる大ピンチとなりました。本陣の旗が倒れたのも三方が原以来でした。そのとき突撃してきたのが赤備えだったとはなんという因縁でしょうか。さすがの家康もそこまでは予想できなかったでしょう。

ますます赤備えは伝説的存在となったのでした。

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