有馬新七と尊王攘夷派が命を落とした寺田屋騒動

有馬新七は薩摩でも強硬な尊皇攘夷派でした。

西郷隆盛とも交流がありましたが、彼らとは意見があわず倒幕のため京都で決起しようとします。

有馬たちの行き過ぎた行動は、島津久光の怒りをかいます。有馬は久光の送った使者と斬りあいになって命を落としました。この事件を寺田屋事件(寺田屋騒動)といいます。

有馬新七とはどんな人だったのでしょうか。有馬新七が命を落とした寺田屋事件についても紹介します。

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有馬新七とは

名 前:有馬正義(ありま まさよし)
字(あざな):新七(しんしち)
生 年:文政8年(1679年)
没 年:文久2年(1703年)
父:坂木四郎兵衛
母:
子:幹太郎

父は薩摩国日置郡の郷士・坂木四郎兵衛。父・四郎兵衛が薩摩の城下士・有馬家の養子になったため、新七も城下で暮らすことになりました。

伯父の坂木六郎は剣術の達人でした。新七は幼い頃から伯父に真影流を学びました。

有馬新七は江戸に出て儒学者の山口菅山のもとで学びます。

もともと「尊王攘夷」は儒学の考えでした。考えそのものは「宋」で生まれたものです。日本に輸入され鎌倉時代から知られていましたが、水戸藩の影響で江戸時代に広がりました。幕末には「尊皇攘夷」とも書かれました。新七も江戸で儒学を学ぶことで尊皇攘夷思想に深く賛同していきます。

安政4年(1857年)。有馬は万学問所教授になりました。

尊皇攘夷派の志士と交流しました。水戸藩士とともに井伊直弼暗殺を計画しました。しかし薩摩藩内の同志の賛成を得られなかったので参加を諦めます。

万延元年(1860年)。伊集院郷石谷村の役人になり。村を治めました。犯罪を厳しく取り締まったり、犯罪者に罰として道路工事をさせるなどしました。有馬新七の指示で作った道が今でも残っています。

その後も尊皇攘夷活動を続けます。

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倒幕の決起のため京に向かう

文久2年(1862年)。島津久光は兵を率いて上洛することになりました。全国の倒幕の志士は久光の上洛を期待していました。薩摩が倒幕の先頭に立ってれると思ったからです。

ところが久光の考えは全く違いました。公武合体を進め、幕府を改革するためです。

久光の考えを知った有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介たち薩摩の過激派は京に集まり、他藩の過激派とともに対策を考えました。

有馬新七たちは京で幕府と親しい関白九条尚忠や京都所司代酒井忠義を襲い。その首を持って久光に倒幕の挙兵を訴えるつもりでした。

決行を控えた有馬新七たちは伏見の船宿寺田屋に集まりました。寺田屋は普段から薩摩藩が利用している宿でした。

志士たちの過激な行動を知った島津久光は激怒。大久保一蔵、有村武次(海江田武次)、奈良原喜左衛門を送って挙兵を思いとどまるよう説得させます。

しかし新七たちは大久保の説得を聞きません。

永田佐一郎は新七たちの説得が出来ないことに責任を感じて薩摩藩邸で切腹しました。

その切腹で島津久光は決行日が近いと考え、藩士たちを京の薩摩藩邸に呼び集めました。このとき呼ばれたのは奈良原喜八郎・大山格之助・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助の8人。剣術に優れた者たちです。

久光は自分が書いた命令書と今後の方針を書いた書状を奈良原たちに持たせ、有馬新七たちを説得させることにしました。それでも決起を止めない場合は「上意討ち(粛清)せよ」という命令も付け加えました。あとで上床源助も志願したので9人が鎮撫使として説得に向いました。

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寺田屋騒動(寺田屋事件)

現在の寺田屋(伏見鳥羽の戦いのあと再建)

4月23日。奈良原喜八郎は寺田屋に到着。有馬新七たち尊攘派の志士達に会おうとしました。ところが橋口伝蔵が有馬新七はいないと言って面会を断ります。

江夏仲左衛門が無理やり会おうとして騒ぎになりましたが、有馬や柴山愛次郎が出てきて2階の部屋で話し合いをすることになりました。

ところが奈良原喜八郎たちと有馬たちの話し合いはまったく噛み合いません。

有馬たちの頑な態度に「主君の命令に逆らうのか」と道島五郎兵衛が怒りだしました。ついには尊攘派の志士と鎮撫使が斬り合いになってしまいます。

有馬も剣をとり道島に切りかかります。有馬も剣の達人でしたから、道島たちに引けを取りません。しかし激しい戦いに剣が折れてしまいました。

有馬は道島に掴みかかって壁に押さえつけました。有馬は怖がって見ていた橋口吉之丞に「我がごと刺せ」と命令します。橋口吉之丞は言われるがまま、有馬の背中から刀を突き刺しました。有馬と道島はともに絶命します。

薩摩藩士同士の激しい戦いの末、尊攘派の志士たちは降伏しました。

2階の騒ぎに1階にいた者たちは奉行所の役人が来て捕物が始まったのだと勘違いしました。しかし奈良原の説得で1階にいた尊攘派も降伏しました。

この事件を寺田屋騒動、寺田屋事件といいます。坂本龍馬が伏見奉行所に襲われた事件とは別です。でも同じ宿で起きた事件です。

(文中のセリフは標準語で書いてます)

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犠牲者と騒動のあと

この戦いで犠牲になった人たち。

尊皇攘夷派
死亡:有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵
重症:田中謙助・森山新五左衛門
この二人は後に死罪になりました。

その他、西郷信吾・大山弥助・三島弥兵衛・木藤市助たち生き残った志士の多くは投降しました。21人が謹慎処分になりました。

京都の藩邸で療養中だった山本四郎は謹慎が命じられましたが、謹慎命令に従わなかったので死罪になりました。

他にも土佐藩や久留米藩の者もいました。他藩の藩士はそれぞれの藩に引き取られました。

引き取り手のない浪士たちは薩摩藩が預かることにしました。預かるといっても船で護送中に殺害して海に投棄するのです。それを知らない浪人の田中河内介たちは船に乗り込み殺害されました。

鎮撫使の犠牲
死亡:道島五郎兵衛
重症:森岡善助
軽症:奈良原喜八郎・山口金之進・鈴木勇右衛門・江夏仲左衛門
他は無傷。

西郷隆盛は、有馬新七たちの決起を止めるため京に向かいましたが。「下関で待機して薩摩の軍を迎えるように」との久光の命令を無視したので島流しになりました。

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薩摩殉難九烈士

寺田屋騒動で死亡した有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵。
あとで処刑になった田中謙助・森山新五左衛門・山本四郎。

この9人は伏見の大黒寺に葬られました。大黒寺は京都における島津家の菩提寺になっていました。

のちに西郷隆盛が私財を投じて有馬たちの墓を建ててます。彼らを止められなかった想いがそうさせたのかもしれません。

有馬新七の墓

 

有馬たち9人は寺田屋殉難九烈士、薩摩九烈士、薩摩殉難九烈士などと呼ばれました。明治になって名誉が回復しています。

大黒寺(京都市伏見区)には有馬達9人の墓と、西郷隆盛が建てたことを示す石碑があります。この石碑は昭和62年に大黒寺を改築したときに新しく建てられたものです。

コメント

  1. BIG-BIRD より:

    ①自身のコメント下から2行目・文也さんの薩摩殉難九烈士の4行目にある大国寺(2カ所)は大黒寺の誤りです。
    ②採用されなかった「おいごと刺せ」について調べました。(全て網羅していません)
    とても意外な結果でした。なんと、第1位は「我がごと刺せ」が16、第2位が「おいごと刺せ」15、第3位「オイゴト刺せ」4という結果でした。最初は「おいごと刺せ」が圧倒していたのですが、途中で逆転しました。敗れた原因の一つは、「おいごと」がカタカナの「オイゴト」になっていたり、「刺せ」が「突け」となっているのが原因の一つと考えられます。調べている中で、臨場感にあふれていたのは、「橋口、橋口ーーっ刺せオイごと。突け、オイごと突けえーー」です。有馬氏の子孫の方は、「予と与に併びに刺せ」と書かれていますが、そんな表現を実際したのでしょうか。
    有馬新七に聞いたら何と言うでしょう。「誰だそんなことを言ったというのは。私は、・・・と言ったのだ」と言うのかも。私も、有馬新七の絶叫を誰が証言したのか知りたいです。

    • 文也 より:

      「我がごと刺せ」は新七が敵ごと胴体を貫かれて死んだのは何故か?それは本人がそれを望んだから。という事情を説明するために載せました。この場合、薩摩弁でも標準語でも意味は変わらないし、新七の意図は伝わると思います。
      ですから資料によく出てくる標準語で書きました。
      それに新七の当時の言葉を完全再現するなら同じ記事中の久光や他の志士の言葉はどうすればいいのか?という問題もでます。
      訳し方で意味や発言者の意図が変わる場合は考慮しますが。そうでない場合はわかりやすさを優先して標準語に近い書き方をしています。