阿茶局・家康の最も信頼する女性

徳川葵

徳川家康の側に常にいる、阿茶局(あちゃのつぼね)。

家康の側室には似たような呼ばれ方をする「茶阿局(ちゃあのつぼね)、お八、朝覚院」がいますが別人です。

知らない人がみたら家康の正室なのかと思うかもしれません。

でも側室なんです。

この時期、正室のいない家康にとっては事実上の正室のような存在でした。

家康との間には子供はできませんでしたが、二代将軍秀忠にとっては生母のような存在でした。

 

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阿茶局とはどんな人

飯田須和が家康の側室になるまで

 

阿茶局は弘治元年2月13日(1555年)甲府で生まれました。
名前は須和といいます。
父は飯田直正。武田家の家臣でした。
武田信玄と今川義元が和睦したときに今川家の家臣となりました。

須和は19歳のときに神尾忠重に嫁ぎます。
神尾忠重は今川家臣でしたが、今川家滅亡後に武田家の一条信龍の家臣となりました。
一条信龍は武田信虎の八男。つまり信玄の弟です。信玄が今川家を倒した後は、駿河国田中城代をしていました。そのせいで駿河の旧今川家臣を召抱えていたんですね。

忠重との間には二男、神尾守世、神尾守繁をもうけました。養子として神尾元勝、高源院(鍋島勝茂正室) を育てています。

ところが23歳のときに夫の神尾忠重が死亡。未亡人になってしまいました。

長篠の戦いのあと、徳川家康は駿河国で積極的に領地を広げていきます。須和の住んでいるあたりは、今川、武田、徳川とめまぐるしく支配者が変っていきました。

25歳で浜松城によばれて家康の側室になったといいます。

須和は美人で頭がよく馬術や弓術も身につけていました。
そんな須和の評判を聞いた家康が「未亡人になるくらいならぜひわしの元へ」と言ったかどうかはわかりませんが、たぶんそんな心境で向かえたのでしょう。

須和にとって徳川は父や夫の仕えた今川や武田と対立していた敵ともいえる存在。とはいえ子供を何人もかかえて頼るものがなくては生きていけません。家の事情はともかく、子供のためにも家康に仕えることにしたのかもしれません。

 

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徳川家康の側室 阿茶局

家康には少なくとも16人の側室がいました。

阿茶局が側室となったのは浜松時代。まだ側室の数は多くありません。すでに正室の築山御前は亡くなっていました。当時は他に3人の側室がいたと思われます。

美人で聡明な阿茶局がよほど気に入ったのか、家康の最も信頼する側室となりました。家康が遠征するときもたびたび同行しました。

小牧長久手の戦いにも若衆姿で同行し陣中で懐妊するも流産しています。これがもとで子供のできない体になったともいわれます。家康と阿茶局の間に子供はいません。

西郷局が亡くなったときは、息子の秀忠(二代将軍)、忠吉の養育を任されました。
息子の神尾守世も秀忠に仕えます。

大所帯となった側室の中では最も家康の信頼が厚く、奥向きの仕事を仕切っていました。
頭が良く才能のある女性だったので徳川家臣の間でも一目おかれる存在でした。

関ヶ原の戦いのあと、方広寺鐘銘事件で大蔵卿局が駿府城に来たときは話し合いの場に出ました。相手が女性なのでこちらも女性を立てたのでしょうが、家康の側室は10人以上います。交渉もこなせる女性として高く評価されていたということです。

大坂の陣にも同行したといいます。

大坂冬の陣のあと本多忠純とともに和議の交渉を行いました。このときの大坂方の使者は淀君の妹の常高院。常高院の義理の息子・京極忠高の陣で会談が行われました。相手が女性ということで阿茶局が呼ばれたのです。

翌日、板倉重昌とともに大坂城まで行って淀君と豊臣秀頼親子に会い和議の確認をとります。殺気立った大坂城に乗り込んでいくのは勇気のいることでしょうが阿茶局は無事役目を勤めました。

大坂夏の陣では真田信繁が家康の陣に肉薄しました。そのときも阿茶の局は家康のそばにいて家康を守ろうとしたといわれます。

二代将軍秀忠の育ての親でもあり、生母のいない秀忠にとっては事実上の生母として頼りにされます。

 

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事実上の将軍生母として

家康が亡くなったあと側室は髪を下ろしました。

でも、家康の命で阿茶局は髪を下して出家することは許されませんでした。残された秀忠を支えるように頼まれたのです。

当時秀忠は37歳。立派な大人です。江戸城の奥にはお江や春日局がいます。

阿茶局は奥ではなく江戸城内に屋敷を与えられそこで暮らします。

幼いころ、生母・西郷院を亡くした秀忠を育てたのが阿茶局でした。

秀忠の娘、和子と後水尾天皇との縁組が決まると、和子に付き添って上洛します。和子が懐妊したときも上洛し母親代わりとして身の回りの世話をしました。

その功績により後水尾天皇より従一位を賜りました。

秀忠が亡くなると、出家し「雲光院」となります。

寛永14年(1637年)。亡くなりました。享年83。雲光院(東京都江東区)に葬られました。

 

 

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