2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
鎌倉殿って誰?
13人って誰?
簡単にいうと
鎌倉殿=鎌倉幕府の将軍。
13人は将軍を助けて政治をする13人の御家人たち。
今風に書けば「KMK13」ってところでしょうか。
でも。これがわからないとせっかくのドラマも楽しめません。鎌倉時代のこともよくわかりません。
そこで鎌倉殿とそれを支えた13人とはだれなのかを紹介します。
鎌倉殿とは
もう少し鎌倉殿を詳しく書くと
鎌倉殿(かまくらどの)とは鎌倉にいる武家の棟梁のこと。
源義朝が鎌倉に屋敷をおいて東国の活動拠点にしたのが鎌倉殿の始まりとされます。以後、鎌倉を本拠地にした源氏の棟梁は鎌倉殿と呼ばれます。
源頼朝からは鎌倉殿=鎌倉の征夷大将軍を意味するようになりました。
源頼朝の後継者。つまり鎌倉幕府の歴代将軍も鎌倉殿とよばれます。
「鎌倉殿」は頼朝以前は東国の武装集団の頭目の呼び方でした。
でも頼朝が「征夷大将軍」に任命されたことでオフィシャルな権威も身につけました。頼朝の時代からは「鎌倉殿」は武士社会のトップの地位として知られるようになります。
鎌倉幕府は存在しない?
「鎌倉殿は鎌倉幕府の将軍」と書きましたけど。
実は歴史上「鎌倉幕府」という組織は存在しません。
江戸幕府があるんだから鎌倉時代の武家政権は鎌倉幕府だろうということで、後の時代の人が勝手に呼んでるだけです。
私達が「鎌倉幕府」と呼んでいるものは「鎌倉殿」とそれを中心にした組織のことです。当時の人々は「鎌倉幕府」というラベルがなくても困りません。
呼び方がなくて困るのは後世の評論家だけです。
もともと「幕府」は征夷大将軍が率いる軍団司令部のことなので、征夷大将軍がいなければ「幕府」は存在しません。
それに頼朝は自分の政治勢力は幕府とは言いませんでした。評定衆とか侍所、政所といった部署の名前はあっても全体の呼び名はとくにありません。それらの組織も一度にできたのではなくて、時間をかけて少しずつできました。
公家は頼朝たちを「武家」としか言わないし、地方の武士たちは将軍を含めて「鎌倉殿」と呼んだりして適当でした。
だから「鎌倉幕府」という名前の組織がなかったんだから鎌倉幕府は何年に成立したか?という問題は意味がない。後出しジャンケンと同じで、鎌倉政権のスタートラインをどこに置くか変えてしまえばいくらでも新説が作れてしまうんです。でもこの記事のテーマとは違うので脇においておきます。
とはいっても。名前がないと落ち着かない現代人としては鎌倉幕府と言ったほうがなじみやすいです。
というわけで鎌倉の武家政権のことを鎌倉幕府と呼びます。
結局、鎌倉殿って何?
というわけで正確には 鎌倉殿=征夷大将軍 とピッタリ一致するわけではありませんが。マニアックなことにこだわらない限りは。
鎌倉殿(かまくらどの)は鎌倉幕府の将軍のこと。
源頼朝とその後継者のこと。
と覚えておけば問題ないです。
少なくともドラマの理解にはそれで十分です。
鎌倉殿を補佐する 十三人の合議制 とは
十三人の合議制とは
鎌倉殿(征夷大将軍)を補佐するため、重臣たちの話し合いで政治が行われました。
この合議制に参加した人々が13人でした。
だからタイトルにある「鎌倉殿の13人」とは鎌倉殿を助けて合議制に参加した人のことです。
歴史用語ではこのしくみを「十三人の合議制」と言ったりします。
十三人の合議制は2代将軍・源頼家のときから
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死後。
後継者になった2代将軍・源頼家は18歳でした。頼家はまだ若く政治の経験も浅いです。最初は源頼家と側近の大江広元たちが決めていました。
でも頼家は勝手な判断で決めてしまうこともあり。頼家の側近に権力が集中するのを嫌う御家人たちの意見もあり。
鎌倉の有力な武家(御家人)から有力な13人が選ばれ、彼らの話し合いで政治を行おう。という仕組みが作られました。
勝手な判断で決めてしまうのは頼朝時代からあったようですが。頼朝には逆らえません。鎌倉殿が世代交代して若くなったのを機会に御家人達が政治に参加できる仕組みと作ろうとなったのでしょう。
とはいっても13人が全員そろうことはほとんどなく。
13人の中の何人かが出席して鎌倉殿を補佐する。という仕組みだったとも言われます。13人は定員というだけで、会議の場には13人そろってなくてもいい。ということですね。
十三人の合議制はすぐに崩壊
結局、13人が決まったものの。このしくみが出来上がった直後から権力争いやら様々な理由で脱落者が続出。
頼家を支える合議制は崩壊します。
源氏将軍が3代で途絶えた後。
公家出身の摂家将軍・藤原頼経が鎌倉殿になりました。その鎌倉殿を支えるしくみとして、評定衆(ひょうじょうしゅう)が作られました。
以後。鎌倉殿を補佐する役割は評定衆に受け継がれます。
鎌倉時代後半。北条得宗家が力をもつと評定衆の力は弱くなってしまい。形だけのものになってしまいます。
十三人の合議制そのものは短命に終わったのですが。武士の時代は約700年続きます。その間に様々な組織ができます。武士が政治を行うため。将軍を補佐する組織のはじまりみたいなものと思えばいいでしょう。
鎌倉殿を支えた13人のリスト
大江広元(おおえ の ひろもと)
もとの名前は 中原 広元(なかはら の ひろもと)
兄に中原 親能
生没:1148~1225年
もとは下級貴族。早くから源頼朝に仕え、鎌倉幕府設立に貢献。
頼朝の家臣団の中ではトップの地位にいました。頼朝の政治にも影響を与え、朝廷との交渉役もこなします。頼朝死後は北条政子や北条義時とも協力。鎌倉幕府にはなくてはならない存在。
中原 親能(なかはら の ちかよし)
死没:1143~1209年
大江(中原)広元の兄。中原家には養子として入ったともいわれます。
もともとは権中納言・源雅頼の家人。源頼朝とは幼い頃からの知り合い。頼朝の挙兵からまもなく、中原家を出て頼朝に合流。頼朝の側近になりました。人脈を生かして京都と鎌倉の交渉も担当。頼朝の死後は頼家を支えました。京都守護として京都での滞在が多いです。
二階堂 行政(にかいどう ゆきまさ)
生没年不明。
藤原氏の末裔。下級貴族。母方が熱田大宮司の家柄。源頼朝とは親戚。その縁で挙兵に参加したと思われます。朝廷で会計業務を担当していたので、鎌倉でもその知識を生かして役人として働き。政所執事になりました。二階堂家は代々鎌倉幕府の政所執事(財政担当)を世襲しました。多くの分家があって鎌倉幕府の実務を支える一族になります。
三善 康信(みよし の やすのぶ)
生没年:1140~1221年
もともとは朝廷の太政官の書記官役を世襲する下級貴族。母が源頼朝の乳母の妹。その縁で頼朝が伊豆に流刑時代から連絡をとりあっていました。頼朝挙兵後は、鎌倉に呼ばれて政務を担当。初代問注所執事になって裁判を担当。
梶原 景時(かじわら かげとき)
生没:1140~1200年
坂東平氏のながれをくむ武士。頼朝が挙兵時には頼朝を討伐する側でした。一度は頼朝を破った後、見逃し。後に頼朝に合流。木曽義仲や平氏との戦い、奥州藤原氏との戦いでも活躍。源義経とは仲が悪かったのでドラマなどでは悪者扱いされます。でも頼朝には忠実で教養と実力のある武士でした。頼朝の側近として侍所別当として御家人を監視する役目を担当。頼朝の死後、恨みをもっていた御家人たちに訴えられて鎌倉を追放になり。京都に向かう途中で襲撃されて死亡します。
足立 遠元(あだち とおもと)
生没年不明
武蔵野国の豪族。頼朝が挙兵すると、武蔵野国で真っ先に頼朝を出迎えに行きました。公文所(鎌倉武士のための文書管理や訴訟の担当)の一員になりました。頼家にも仕えましたが途中から名前が出てこなくなり、高齢のため引退したと思われます。武骨者が多い東国武士の中では書類管理など文官的素質を持った人物。
安達 盛長(あだち もりなが)
生没年:1135~1200年
源頼朝が伊豆に流されていたときから仕える御家人。挙兵時から頼朝の従者として仕え様々な命令を受けて動いていました。頼朝の死後は出家。頼家を補佐。三河の守護にもなりました。梶原景時を追求した一人。鎌倉時代に栄えた安達氏の始祖。
八田 知家(はった ともいえ)
生没年:1142~1218年
保元の乱では源義朝と共に戦い。頼朝の挙兵時から参加。平氏や奥州藤原氏との戦いにも参加。頼朝の死後は、北条氏に味方しました。常陸国の守護。
比企 能員(ひき よしかず)
生没年:不明~1203年
能員の叔母・比企尼は頼朝の乳母。頼朝の信頼も厚く、頼家の乳母も比企一族でした。
娘は頼家の側室になり、比企家は外戚として力を持ちます。頼朝の死後は梶原景時を追求にも参加。その後、北条氏と対立して滅亡します。
北条 時政(ほうじょう ときまさ)
生没年:1138~1215年
北条政子、北条義時の父。伊豆に流された源頼朝の監視役になり。娘の政子が頼朝の結婚。頼朝の挙兵に参加。その後はほぼ頼朝と行動をともにしています。平氏滅亡後は、京都守護になります。頼朝死後に、梶原氏が没落。力をつけた比企氏と険悪になり、頼朝が病に倒れると比企に謀反の疑いをかけて討伐します。その後、実朝を3代将軍にしますが、その実朝を廃そうとしたので政子・義時たちによって隠居に追い込まれます。
弱小勢力だった北条氏を大勢力にした人物ですが、晩年に強引な部分がでて評判を落しました。
北条(江間)義時(ほうじょう よしとき)
生没年:1163~1224年
北条時政の次男、政子の弟。頼朝の挙兵に参加。成人してもしばらくは「江間」を名乗っていました。分家扱いだったようです。頼朝の寝所を護衛する「家子」になり。頼朝の信頼を得ました。頼朝の死後。比企氏の討伐など、時政が権力を手にいる家庭で手足となって働きました。その後、時政と対立した義時・政子は義時を隠居させました。義時は北条家の当主、鎌倉幕府の執権になります。3代将軍・実朝の死後。後鳥羽上皇と対立。「義時を討て」と名指して攻撃されますが、鎌倉武士団をまとめて朝廷軍と戦って勝利。後鳥羽上皇を隠岐の島に流します。この勝利で鎌倉幕府の全国支配が強まり。鎌倉幕府内での北条家の地位も確定しました。
三浦 義澄(みうら よしずみ)
生没年:1127~1200年
桓武平氏の流れをくむ三浦氏の一族。平治の乱では源義平に味方しましたが敗北して相模国に戻りました。頼朝挙兵後は、頼朝と合流して平氏と戦います。頼朝の死後、梶原景時の追放に参加。その後病死。
和田 義盛(わだ よしもり)
生没年:1147~1213年
三浦氏の一族。源頼朝の挙兵に参加。関東の平氏方との戦いに参戦した後。源範頼の軍に同行。九州や壇ノ浦の戦いに参戦。奥州藤原氏との戦いにも参戦。
頼朝の死後。梶原景時の追放に参加。その後、北条義時と対立して滅ぼされます(和田合戦)。
以上の十三人です。関東の豪族出身の者、貴族出身の人たちもいて。初期の鎌倉幕府のメンバーは意外と多彩な顔ぶれです。
こうした人達の中から北条時政・義時が力をつけて北条氏が鎌倉幕府の中心勢力になるのですね。
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