嘉納治五郎・柔道の創始者は日本のオリンピック参加にも貢献

嘉納治五郎は講道館柔道の創始者として有名です。

アジアで最初にIOC(国際オリンピック委員会)委員となり。日本のオリンピック参加にみちびきました。幻になった1940年の東京大会を招致したのも嘉納です。

嘉納治五郎とはどんな人だったのでしょうか。

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 嘉納治五郎(かのう じごろう)とは

名 前:嘉納治五郎(かのう じごろう)
生 年:明治8年(1875年)
没 年:昭和13年(1938年)
出身:兵庫県神戸市(ひょうごけんこうべし)

柔道の創設

嘉納治五郎は現在の兵庫県神戸市で産まれました。実家は酒造・廻船業をいとなむ豪商の家でした。

明治8年(1875年)。開成学校(現在の東京大学)に入学しました。

学業は優秀でした。体格に恵まれなかった嘉納は腕力では体格の大きな人にはかないません。そこで非力な者でも強いものに勝てるという柔術を学ぼうとしました。当時は文明開化で武道を志すものが少なくなり。教えてくれる人を探すのも苦労したようです。

明治10年(1877年)。天神真楊流柔術の道場に入門しました。嘉納は柔術の上達が早く頭角をあらわします。柔術とは日本古来よりあった武術です。古くからあった武術をまとめた呼び方なので流派によって内容が違います。

明治14年(1881年)。学校を卒業後、起倒流柔術の道場に入門しました。二つの流派の技術を身につけた嘉納はそれぞれの長所をあわせて「くずしの理論」をあみだし、独自の「柔道」を作りました。

明治15年(1882年)。下谷北稲荷町(現在の東京都台東区上野)に柔道場「講道館」を設立しました。囲碁・将棋から段位制を取り入れました。

嘉納は教育にも熱心でした。

明治15年(1882年)。神田(東京都千代田区)に英語の学校・弘文館を設立しました。

明治19年(1886年)。学習院(学習院大学)の教授兼教頭になりました。

明治24年(1981年)。第五高等学校(現在の熊本大学)の校長になりました。

明治26年(1893年)。東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長になりました。嘉納は心身を鍛えるための体育を重視、水泳や長距離走を学生に勧めます。

同年。講道館を小石川に新築して女子も受け入れました。

明治32年(1899年)。清国からの留学生を受け入れるため弘文学院(宏文学院)を神田に設立しました。中国の作家・魯迅も若い頃ここで学んでいます。

嘉納は「柔道や体育は生涯続けることで心身ともに若々しく幸福に生きることができる。それでえたものを社会生活で実践してほしい」という考えをもっていました。

明治42年(1909年)。日本のスポーツのへの貢献を評価された嘉納は、IOC(国際オリンピック委員会)会長クーベルタンの依頼でアジアで初のIOC委員になりました。

日本が初めてオリンピックに参加する

明治44年(1911年)。大日本体育協会(現在の日本体育協会)を設立。会長となった嘉納はオリンピック予選会を開きました。その大会では金栗四三や三島弥彦が好成績をあげオリンピックの選手になりました。

ところが、遠征費用がないという理由で金栗四三が出場辞退を申し出てきました。嘉納は後援会をたちあげ寄付を集め金栗の遠征費用を作りました。

大正元年(1912年)。日本は初めてオリンピックに参加。嘉納は団長となって金栗四三と三島弥彦をオリンピックに連れていきました。競技の成績はよくありませんでしたが、初めて日本がオリンピックに参加したことに大きな意義がありました。

嘉納の想いは参加するだけではとどまりません。日本でオリンピックを開きたいと思うようになりました。

1940年東京オリンピックの招致に成功

昭和6年(1931年)。嘉納の熱意が実り、東京市会(現在の東京都議会)を動かします。東京にオリンピックを開催しようと招致活動が始まりました。

昭和7年(1932年)。ロサンゼルス大会に出席した嘉納は同時に開かれたIOC総会で日本のオリンピック参加を訴えます。

昭和11年(1936年)。嘉納はベルリンで行われたIOC総会でオリンピックをアジアで行うことが世界のスポーツ・文化の発展になると主張しました。

そして、1940年の東京オリンピック開催が決定します。

ところが1937年からはじまった日中戦争が激しくなります。

昭和13年(1938年)日本はオリンピックの開催を返上しました。

嘉納はそれを知る前に亡くなりました。享年77。

嘉納が始めた柔道は今や世界中の人々に親しまれています。今や世界的な競技になりました。嘉納の業績はそれだけではありません。日本のスポーツの発展や、オリンピックへの参加にも大きな貢献をしたのです。

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