武田家家臣でありながら織田家に味方し、武田家滅亡に大きな役割をはたした木曽義昌。
大河ドラマ「真田丸」では1話で名前が出て以来、なかなか登場しません。7話でようやく登場。妙に軽いのりのおじさんですが・・・
実はなかなかのしたたか者。でもやっぱりつめが甘い。
武田や真田にとっても重要な役割を果たした戦国武将なのです。
うまく戦国の世をきり抜けたかと思われた木曽家ですが。
その結末は・・・
木曽義昌はどんな人?
天分9年(1540年)、信濃国木曽谷を治める木曽義康の嫡男として生まれました。
木曽氏は源義仲(木曽義仲)の子孫と言われています。源頼朝と対立して義経の軍に討たれたあの木曽義仲ですね。
源義仲の嫡流は絶えたことになってます。でも木曽谷の木曽氏は源義仲の子孫だと主張していました。あくまでも「自称」です。
父・木曽義康の時代には、小笠原家、村上家と共に武田家と対立していました。
弘治元年(1555年)武田信玄に敗れて服従することになります。
木曽谷は美濃や飛騨との国境にあり、地理的に重要な場所でした。
そこで信玄は自分の娘・真理姫を、義康の嫡男・義昌に嫁がせて服従関係を強化します。木曽家からも人質をとり、完全に武田家に服従することになりました。
永禄8年(1565年)には義昌が家督を継いでいたようです。
元亀4年(1573年)武田信玄が死亡し、勝頼に仕えることになります。
天正7年(1579年)父・義康が死亡します。
勝頼との確執
信玄亡き後の武田家には不安を感じていたようです。
信玄には服従していましたが、勝頼とはあまり仲はよくありませんでした。
長篠合戦の後、秋山虎繁の守る美濃岩村城へ織田信忠が攻めてきました。
このとき勝頼より岩村城に援軍を出すように命令されますが、拒否します。
結果、岩村城は織田軍のものとなり秋山虎繁は処刑されます。
このせいで勝頼は義昌に対して不信感を持つようになりました。
勝頼は新府城をはじめとする城をいくつか作りました。
木曽義昌はかなり負担させられたので我慢の限界がきます。
天正10年(1582年)そこに織田家から寝返り工作を受けて、義仲は武田を裏切り織田家に付くことにします。弟の上松義豊を織田信忠に人質に出しました。
天正10年(1582年)2月。木曽義仲の裏切りは勝頼に知られてしまいました。もともと不信感をもっていた勝頼は木曽家の人質を処刑します。木曽を討つために武田信豊を大将とした5000の軍を出し、自らも1万の兵を率いて出兵します。
織田信長は勝頼が木曽の人質を処刑したことを知ると、勝頼討伐のための軍を出します。
木曽谷には織田から森長可と団忠正が援軍に来ました。
義仲は織田から援軍を得ると地の利を生かして戦い、鳥居峠で武田軍を破りました。
その後、武田家は滅亡します。
天正壬午の領地獲得合戦で優位を生かせず
この功績により、信濃国北西部の安曇・筑摩二郡(計10万石)が加増されます。深志城(松本城)に城代を置いて領地の経営に乗り出します。
天正10年6月(1582年)本能寺の変が起きます。すると旧武田領を巡って争いが起ります(天正壬午の乱)。
義昌は信濃から逃げる森長可の命を狙います。でも、暗殺計画がばれてしまいました。逆に深夜に福島城内に侵入され息子の岩松丸を人質に取られてしまいます。森長可は岩松丸をつれたまま逃亡。義仲は岩松丸身の安全のため、道中の領主に森長可には手を出さないように依頼するはめになりました。
滝川一益が信濃から逃げるときには、一益が連れていた小県郡と上野衆の人質を渡すように要求し、人質を奪い取ります。人質をうまく利用すれば信濃国小県郡と上野国も手に入れられるかもしれません。
これで、木曽、安曇、筑摩の信濃三軍と上野衆の人質を得た木曽義昌はこの地域で有利な立場になったかに思われました。
ところが。
上杉の支援を受けた前信濃守護・小笠原長時の弟・小笠原洞雪斎が挙兵すると旧小笠原家臣も立ち上がります。
7月。小笠原軍によって深志城が落とされます。義昌は安曇・筑摩二郡を放棄しました。
小笠原家臣団が小笠原洞雪斎が上杉の操り人形に過ぎないと不満を持つようになると、こんどは徳川家康の支援を受けた小笠原長時の子・小笠原貞慶が挙兵。旧小笠原家臣団は貞慶に付いたため、洞雪斎は追放されます。安曇、筑摩は徳川家康の支配下になりました。しかし8月には貞慶は独立してしまいます。
このころまでは義昌は北条に従っていました。
しかし、小笠原貞慶の軍に手を焼いていた義昌は北条との同盟は破棄して徳川に服従することにします。小笠原貞慶から安曇、筑摩を取り戻すためには徳川家康の協力が必要と考えたからです。家康も安曇、筑摩を奪い返したら木曽のものにしても良いと認めました。
しかし木曽義昌がとっていた小県と下野国の人質を家康に渡すように要求され、仕方なく渡します。
「真田丸・7話」でとり に人質を他に渡さないと約束させられるのは、この伏線。もちろん約束を破ることになります。
こうして有利な立場にいたはずの木曽義昌はもとの木曽谷の領主に戻ってしまったのです。
没落が始まる
天正12年(1584年)。羽柴秀吉と徳川家康が対立します(小牧・長久手の戦い)。
すると、家康との同盟を破棄して秀吉に寝返ります。
家康は木曽領の妻籠城を攻めますが、義昌はこれを撃退します。
徳川を撃退したのは真田だけではなかったんですね。
その後、秀吉と家康は和睦します。
天正18年(1590年)。秀吉の小田原征伐が始まります。木曽義昌にも出兵の命令が出ました。義昌は病気を理由に代理として当時14歳の嫡男・義利を出陣させます。この対応が秀吉に不信感を与えたともいわれます。
その後、徳川家康が関東に移動になると木曽義昌も下総国阿知戸(千葉県旭市網戸)1万石に移動になります。徳川家康の支配下に入るように命令を受けました。
秀吉に従ったはずの木曽家ですが、なぜ移動になったかは正式な理由は分かりません。
でもやっぱり、北条征伐に自分が行かなかったのが影響しているのでしょう。
木曽を追い出された義昌は、体調を崩し文禄4年(1595年)亡くなりました。
木曽家の運命
義昌の死後、木曽家は義利が継ぎました。
しかし、義利は叔父の上松義豊を殺すなど横暴な振る舞いが多く、慶長5年(1600年)改易されました。かつて徳川を裏切っている木曽家に対して不信感があったともいわれます。
義利は浪人となります。以後の消息は分かりません。
阿知戸は幕府直轄地になりました。家臣はばらばらになりましたが、木曽谷の代官になった家臣もいます。
義昌の次男・義成は大坂の陣の浪人募集に応募して戦いましたが戦死しています。
義昌の三男・義一は母・真竜院とともに木曽谷に戻り余生を送ったともいわれます。
真田家と明暗を分けた木曽家
戦国時代の国人領主から出発し、大名の間を渡り歩いて家の存続を行ったというのは、真田家と似ています。当時の領主なら程度の差こそあれ似たようなことはしています。
一時は真田を上回る領地を持ちながらも、うまく生かすことができません。武家としての木曽家は途絶えてしまいました。
真田も木曽も、北条、徳川、豊臣に仕えました。
長男が大名となり、次男が大坂の陣に参加しました。
最後は幽閉先で罪人として亡くなった昌幸に対し、見知らぬ土地に飛ばされ石高も減ったとはいえ大名として死ねた義昌。
真田は裏切りを重ねても生き残る知恵と賞賛され。木曽は裏切り者呼ばわりされる。
徳川と縁を結んでいる信幸と、なんの後ろ盾もない義利。
秀頼からの誘いで指揮官としての立場で大坂に入った信幸と、浪人の募集に応募した義成。
確かに立場は違います。
後世の人は結果でしか評価してくれないものですから、つらいものがあります。
名声と家をのこすことが戦国武将の評価に大きくつながることになるのかもしれません。
どちらも残せなかった木曽家と、どちらも残した真田家。
同じような境遇にありながら対称的な結末になった一族といえます。
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