真田信繁の人質時代

戦国武将でもトップクラスの人気を誇る、真田幸村がついに大河ドラマの主役になりました。

大河ドラマ「真田丸」では実名の真田信繁で登場します。

真田信繁は名前だけをとっても後世に脚色された部分の多い武将です。

参考記事:真田幸村の名前の謎

最新の文献などをもとに真田信繁について調べてみました。

すると、ドラマとは違う部分もけっこうあったりします。

最近の研究では真田信繁についてどこまで分かっているのでしょうか。

人質の続く信繁の幼少時代

真田信繁は元亀元年(1570年)、甲府の躑躅ヶ崎館にて武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の次男として生まれました。幼名は弁丸(べんまる)。

母は山手殿(ドラマでは薫)。

通説では永禄10年(1567年)生まれとなっています。過去のドラマでもこの説が元になっています。「真田丸」でもこちらの説を採用してるみたいですね。

でも、「仙台真田系図」や菩提寺の過去帳には享年46となっているということなので、元亀元年説を取り上げたいと思います。

幼少期は武田氏の人質として母や兄とともに過ごしました。

天正10年3月3日(1582年)。武田勝頼が新府城を放棄するときに、人質から開放されて父親のいる岩櫃城へ向かいます。途中落ち武者狩りをかいくぐりながらの移動でした。このとき弁丸は12歳。

ドラマで堺雅人さん演じる真田源次郎はちょっと老けてる?通説になってる永禄10年説でも15歳。ちょっと苦しい・・・かな。堺雅人さんは若作りして子供っぽくふるまってますが。できれば十代の俳優さんを挟んだほうがよかったんじゃ。それはさておき。

無事、岩櫃城にたどり着いた一行ですが。武田家は滅亡。旧武田領は織田と徳川のものになります。真田家は織田家に従うことになりました。上野国、信濃小県を支配したのは滝川一益です。一益は地元の領主達(上野衆)に従来どおり領地を治めることを許可します。領主たちは次々に人質を差し出して一益に従ったということです。

でも、本能寺の変で信長が亡くなります。滝川一益は明智光秀を討つために織田領に戻ることになりました。でも織田領に変えるためには木曽義昌の領地を通らないといけません。

木曽義昌は領地を通過する条件として上野衆の人質を置いていくように要求します。しかたなく滝川一益は人質を連れていくことにしました。真田家は昌幸の母(ドラマではとり)を人質に出していました。でも、実際には弁丸も人質になっていたのです。

一益が帰国した後、弁丸は祖母(とり)と共に木曽義昌の人質となりました。このとき、弁丸が木曽領から祖母の実家にあてた手紙が発見されて弁丸が人質になっていたことが分かりました。その手紙は平仮名で書かれた部分が多く、まだ成人していないことが予想されます。

しばらく木曽でいた弁丸と祖母ですが、天正10年(1582年)9月、徳川家康が人質を解放するように要求します。木曽義昌は、逆らえずに人質を徳川家康に渡しました。

このとき、弁丸は開放されたと考えられています。しかし、祖母はその後も徳川家康の人質となったということです。

弁丸は上田に戻って来ました。
堀田作兵衛の妹(梅)との間に子供を儲けます。名前はすへ(菊)。

 記事参照:信繁初恋の人・梅とは

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16歳で上杉家の領主となる

天正13年7月(1585年)。真田昌幸は徳川から上杉に寝返ります。

このとき弁丸は上杉の人質となりました。弁丸には矢沢三十郎頼幸が着いていくことになりました。上杉では人質とはいえ、家臣並みの待遇を受けます。

信濃国屋代に領地を与えられました。当時16歳だった弁丸は矢沢頼幸に助けられながら領主としての仕事も努めました。屋代に入ってからも弁丸の名前で出した書状が見つかっていますので、この後元服し真田源次郎信繁と名乗るようになったと考えられています。

天正13年閏8月。上杉に寝返った真田に対して、徳川軍が攻めてきました。第一次上田合戦です。このとき、矢沢頼幸は上杉の援軍を率いて上田に駆けつけます。もしかするとこのとき信繁も援軍の中にいたかもしれません。近年では信繁が上田合戦に行ったと主張する研究家もいます。しかし人質になって一ヶ月しかたっていないのに返すはずがない。という意見も多いです。

それを裏付ける資料はありませんが、ドラマではそのように描かれました。

矢沢頼幸率いる部隊は、真田信幸の部隊と共に、上田城から撤退しようとする徳川軍に追い討ちをかけ、手がらをあげます。

その後、真田昌幸は豊臣秀吉の配下になります。既に上杉家は豊臣家の家臣になっていたので上杉景勝の仲介もありました。

豊臣家家臣へ

天正15年1月(1587年)。真田昌幸と信之、信繁は豊臣秀吉に会うために上洛します。

信繁は豊臣家の人質となり残ることになります。母・山手殿も人質として京、後に大坂に来ました。

信繁は人質というよりも豊臣家の家臣としてあつかわれます。

戦国武将真田信繁としての本格的な活躍は、ここから始まったともいえます。

コメント

  1. 真田信繁 より:

    誕生日の記録がない真田信繁の死亡年齢が数え49歳という記録があるなら、1567年生まれで間違いない。さらに井伊直政が数え22歳で元服していることから、真田信繁が上杉景勝の人質であった数え19歳で幼名を記した以降に元服しても、なんら1567年に疑う余地はない。

    • 文也 より:

      真田信繁さん、こんにちは。
      通説の1567年説は真田家家臣・河原綱徳が幕末に作成した資料で大坂の陣のとき49歳だったという記述を逆算してのもの。
      1570年説は真田家の菩提寺の過去帳に享年46とあったことから逆算してのものです。上杉に送られたときに「御幼若之方」という書かれ方をしていますし、通説より若いんじゃないかと思った次第です。16歳でも幼いとはいえませんが。どういうニュアンスで使ったかわからないのでなんともいえません。
      「真田丸」では1567年説を採用していますし。どちらを信じてもいいと思います。