大野治長・最後まで豊臣家に忠義を尽くし大阪城に散る

五七の桐
五七の桐

大坂夏の陣で豊臣方を指揮した武将。大野治長。
淀殿と仲がいいとか、治長のせいで大坂の陣に負けたとかさんざん言われてますが、そんなに無能な武将だったのでしょうか。あげくのはてには秀頼の父親説までとびだして。ゴシップネタにされてる治長。

せっかく豊臣家のために頑張ったのに気の毒な感じもします。
実際のところどんな武将だったのでしょうね。

そんな大野治長について調べてみました。

 

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大野治長(大野治長)のおいたち

名前:大野 治長(おおの はるなが)
通称:修理(しゅり)
生年:永禄12年(1569年)
没年:慶長20年(1615年)

父:大野定長 
母:大蔵卿の局

兄弟:弟・治房、治胤、治純

 

永禄12年(1569年)京都に生まれました。父は大野定長、母は大蔵卿の局。
淀殿の乳母として絶大な信頼を寄せられていた大蔵卿の局の息子なのです。
淀殿と治長は乳兄弟ということになりますね。

大野家はもともとは浅井家の家臣だったのでしょう。

治長には実の兄弟に、治房、治胤、治純という弟がいます。弟たちも大坂の陣で重要な役割を果たします。

母が乳母を務めた茶々は秀吉の側室になりました。母も茶々に従って大阪城入りします。治長はそのころ20歳前後でした。おそらくその時に治長も秀吉に使えるようになったのだと思われます。

秀吉に仕えることになった治長は馬廻衆として取り立てられます。馬廻衆とは大将(大名の)馬のまわりに控えて、対象を守ったり、伝令を務めたり、いざというときには戦ったりする親衛隊のようなものです。武芸に優れたものが多かったといわれます。真田信繁も馬廻衆でしたね。

天正17年(1589年)には和泉国佐野、丹後国大野を併せ1万石の領地を与えられました。
文禄3年(1594年)の伏見城の普請にかかわりました。

秀吉の死後は秀頼の側近として仕えます。
慶長4年(1599年)9月に前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久が徳川家康の暗殺を計画したとして追及されます。
大野治長はこの件で下総国の結城秀康のもとに送られ謹慎生活を送ります。

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは徳川家康に味方して東軍に加わります。治長は豊臣家を裏切ったわけではありません。治長が預けられていた結城秀康は家康の次男です。いやおうなしに参戦することになったのでしょう。また関ケ原の戦いそのものは徳川対豊臣の戦いではなく家康対石田三成ら反家康勢の戦いでした。豊臣家内部の派閥争い的な一面もあったので、治長としてもいずれ豊臣家に戻るためにもここで手柄をてて解放されることを望んでいたのでしょう。

治長は関ケ原のでの功績が認められ、謀反の罪を許されます。
徳川家康の使者として「豊臣家に敵意はない」という内容の書状をもって、大阪城を訪れました。治長はそのまま大阪城に残り、秀頼の側近として仕えます。

慶長19年(1614年)6月、家康の口添えで秀頼から5000石を加増されます。治長はそのお礼として駿府の徳川家康、江戸の徳川秀忠を訪ねました。

慶長19年(1614年)10月、片桐且元が大阪城を追放されたあとは、秀頼の側近として豊臣家を支える立場になりました。

 

大坂の陣

 

しかし徳川家康との対立は日に日に増していきます。大阪城内でも戦は避けられない雰囲気になってきました。

大野兄弟でも立場は分かれていたのでした。治長は和平派、次男治房は主戦派、四男治純は徳川方にわかれていました。

秀頼の呼びかけに大名は集まりませんでしたが、浪人たちが集まりました。その中には真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、毛利勝永、明石全登有力な者もいました。

 

籠城か野戦か?

江戸時代に作られた軍記物によれば真田信繁らは先に打って出て徳川勢を撃退することを主張したといいます。
瀬田(滋賀県大津市琵琶湖の東側)、宇治(京都宇治市)を占領し徳川軍を迎え撃ち、その間に大名の寝返りを待つというもの。さらに後藤基次、毛利勝永は伊賀(三重県伊賀市のあたり?)と大津(滋賀県大津市琵琶湖の西側)にも兵を送ることを主張しました。

でも、治長は強固な大阪城にたてこもって徳川勢が疲れるのを待ち和平に持ち込むことを考えていました。

浪人たちは徳川家の復讐や手柄を立てることを目的に集まった者たちでまとまりはありませんでした。大規模な軍団を編成して野戦で幕府軍と互角に戦えるのかは未知数でした。野戦で大敗し城を守る兵を失えば勢いづいた幕府軍を止めることは難しくなり、和平どころではなくなります。

結局、治長らの案が採用され籠城することになりました。防御と警戒のために大阪城周辺にいくつも砦が築かれました。真田丸もその一つです。砦を作ること自体は信繁が来る前から行っていたようです。

さらに信繁の主張した野戦はあくまでも信頼のおける大規模な家臣団がいてこそ実現できる作戦でした。事実、大坂夏の陣では武将たちは信繁の立てた作戦通りには動かず信繁は直属の兵だけで突撃するはめになります。冬の陣で野戦をした場合、豊臣家の滅亡が早まることになったかもしれません。

現在でも治長のとった籠城策は失敗だという意見がありますが。短期間で浪人をまとめ、いくつもの方面に部隊を派遣し、野戦するのはかなりリスクの高い策かもしれません。

確かに信繁の主張した野戦の方がロマンがあるし面白いです。歴史好きな人や作家が信繁の主張どおりに戦っていれば・・っていうのもわかります。勝つにしろ負けるにしろ話のネタとしては盛り上がりますよね。

野戦が成功したら英雄扱い。でも失敗したら真田信繁も大野治長も今頃は無能呼ばわりされて、”真田幸村伝説”は存在しなかったかもしれません。

でも実際に豊臣家の存亡をかけてる治長にとっては、そんなギャンブルできません。治長の判断は面白みはありませんが、当時の豊臣方の状況からみれば現実的かもしれません。

しかも治長は信繁を信用しているわけではなかったようです。信繁の兄・信之は家康に味方していますし、信繁もいつか寝返るんじゃないかと心配していたようです。そんな信繁のいうことなら裏があるんじゃないかと疑ったのかもしれません。

大坂冬の陣

11月18日に大阪冬の陣が始まります。最初は大阪城周辺で合戦が始まりましたが、豊臣方はことごとく敗退。12月に入ると大阪城の攻防戦が行われます。最初は持ちこたえていましたが16日より大砲による大阪城天守への攻撃が始まり、城内でも被害が広がります。弾薬が不足がちになったり兵の疲弊も進みます。秀頼はそれでも戦いを続けるつもりだったようですが、淀殿らが和平を主張するようになりました。淀殿の命令を受けて、織田有楽斎とともに浪人達を説得。和平に持ち込みます。治長は次男の治安を徳川に人質に出し和平の成立に尽力しました。その結果、治長の望んだ和平が成立することになります。

治長や秀頼としてはここで時間を稼いで家康が死ぬのを待つ作戦だったのかもしれません、なにしろ家康はこのとき73歳。いつ死んでも不思議ではありません。事実2年後に死んでます。

しかし和平の内容は城内の強硬派には納得のできないものでした。堀は埋め立てられ、大阪城は裸城になってしまいます。

治長は豊臣家の存続のために幕府と交渉を続けました。

これに大野治房ら主戦派は反発。治長は城内で刺客に襲われけがをしてしまいます。このとき襲った刺客は実弟の大野治房の家臣だったともいわれています。

和平交渉は決裂。治長の影響力は衰え、主戦派の治房らが発言力を強めていきました。

大坂夏の陣

大坂夏の陣では徳川軍は大和、河内、紀伊方面から押し寄せてきました。
4月、治長は和泉方面で一揆をおこし、その混乱に乗じて徳川軍を攻める計画でした。一揆をおこすために派遣した家臣がつかまり、部隊の連携もとれずに失敗してしまいました。

5月7日。豊臣方は決戦を挑むため、大阪城を出て平野に陣取りました。
治長は天王寺付近に布陣しました。真田信繁、毛利勝永らの後方にあたります。
幕府軍との戦いが始まりした。真田信繁・毛利勝永・大野治房らが突撃を繰り返し、徳川方に被害ででて崩れだします。
治長はこれを好機と考え、秀頼の出陣を求めるべく大阪城に引き返しました。
しかしこれを見ていた他の部隊が治長が逃亡したと勘違い。前線が混乱し始めます。

治長は弟・大野治純から真田信繁、毛利勝永が徳川に内通しているという書状を見たと報告をうけます。

治純は徳川家康に仕えていました。治純が家康の策略に従って動いてる可能性はありました。その一方で治長自身も信繁を信用できなかったようです。治長は信繁が夏の陣と冬の陣の休戦の間に兄・信之の陣を訪れていたことを知っていたかもしれません。信繁は大阪城内でいる気まずさを紛らわしたかったのかもしれませんが、治長には不審な行動に思えたかもしれません。大野治長が天王寺付近で信繁の後方に布陣したのも信繁の行動を見張るためだったとも考えられます。

真田、毛利のすさまじい突撃を見ていた治長にしてみれば、あの勢いで向かってこられたら秀頼を守ることはできないと思ったでしょう。金で雇った浪人です。不利になったらいつ裏切るとも限りません。治長は弟を信じることにしました。大事な場面で信繁を信用できなかったのです。

治長は淀殿に報告します。淀殿も秀頼の出陣を反対します。その結果、秀頼の出陣は急きょ中止になりました。

大野治純は家康のスパイとして送り込まれていたのでしたが、治長は弟を信じてしまったのでした。

その後、大阪城に幕府軍が突撃してきました。味方のはずの浪人達も城内で略奪を始めます。いつしか大坂城には火が放たれ天守は燃えていました。

治長は「自分の切腹を条件に秀頼親子を助けてほしい」という言葉を託し、秀頼の正室千姫とお初(淀殿の妹)を大阪城から逃がします。千姫は父・徳川秀忠のもとに送り届けられました。しかし、秀頼親子を助けるという願いは聞き入れられませんでした。

治長は秀頼親子とともに燃える大阪城内で自害したのでした。享年47。
長男・治徳、母・大蔵卿の局もいっしょに自害しました。人質に出した次男・治安は処刑されました。

 

秀頼は治長の息子なのか?

 

豊臣秀頼は、背が高く当時としては美青年だったといいます。背の低い秀吉の子供には似つかわしくない。なかなか子のできなかった秀吉に急に子供ができるのはおかしい。というころで、当時から秀頼は秀吉の子供ではないのでは?といううわさがあったようです。

秀頼の父親の有力候補としてよく名が挙がるのが、大野治長です。
治長は長身で色白。治長の母が茶々の乳母でしたから、幼いころから顔見知りの仲だったでしょう。治長には「密通してもおかしくない」と周囲が思えるだけの条件はありました。

また、治長は秀吉に使えるようになってすぐに1万石の領地を与えられます。実績もないのに出世したわけです。周囲の妬みは相当なものだったでしょう。母が淀殿の乳母という立場だったからこそ異例の出世だったと思われますが。それも噂をたてられる原因だったかもしれません。

現在でも歴史&ゴシップネタ好きの餌食になってますね(笑)。

秀頼の父は秀吉なのかそうでないのか。現実はどうかわかりません。
秀吉もその噂は気にしていたようですが、秀吉自身が秀頼を大変気に入って実の子として認めたのですから。それでいいんじゃないでしょうか。

今となっては真相は不明です。

 

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真田丸で演じるのは今井朋彦さん

 

真田丸で大野治長を演じるのは俳優の今井朋彦さん。
HRに出演以降、三谷作品にはよく出ていますね。

 

主な作品
HR  村井朋彦
ビギナー 猪瀬
伝説のマダム 村井朋彦

声優としても活動していますね。
吹き替えが多いようです。

 

大河ドラマにも何度が出てるんですよ。
新選組!(2004年) 徳川慶喜
風林火山(2007年) 小笠原長時
軍師官兵衛(2014年) 平岡頼勝
真田丸(2016年) 大野治長

ちょっと情けない役が多いですね。
とすると、真田丸の大野治長も情けない役なんでしょうか。

 

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