大坂五人衆、大坂の陣で活躍した個性派ぞろいの武将たち

大坂城

 

豊臣と徳川の最終決戦。大坂の陣では豊臣家は大勢の浪人を集めて徳川幕府に対抗しました。

集まった浪人の中には元大名や有名な武将もいました。特に名高い浪人達は大坂五人衆と呼ばれ、浪人達の指揮官として活躍します。大坂五人衆とは真田信繁(幸村)、後藤又兵衛基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登です。

大坂五人衆について紹介します。

 

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大坂五人衆とは

五人衆ができたいきさつ

もともと真田信繁、長宗我部盛親、毛利勝永は元大名あるいはその息子です。豊臣家では彼ら三人を大名クラスの武将としてあつかいました。他の浪人よりも格上の存在だったのです。

後藤基次や明石全登は大名ではなく大名家に仕える重臣クラスでした。だから最初は扱いが低かったようなのです。

ところが大坂城周辺に砦を作っているときに問題が起きました。徳川幕府との戦いが避けられないと判断すると、大阪城周辺に砦を作りました。後藤基次は大坂城南側の玉造口にめをつけ、砦を作ろうと準備を始めていました。ところが、玉造口の砦は後から来た真田信繁のものになってしまいました。これは基次が途中まで作っていたのを信繁が受け継いだともいわれますし、信繁が勝手に自分の砦にしたとも言われます。この砦が真田丸になります。

玉造口の砦を信繁の担当にしたのが大野治長達上層部の判断か、信繁の独断なのかはわかりません。ところが納得できないのは基次です。基次は大野治長に抗議しました。その結果、砦は真田信繁のものにする代わりに、基次を三人衆に加えて大名格の扱いにすることにしました。そのとき、基次と同格の明石全登もいっしょに大名格扱いになりました。この5人を大坂五人衆といいます。

 

五人衆の位置づけ

 

豊臣方は豊臣秀頼が主君。その元で家臣や浪人達をまとめる総司令官は大野治長。その下に五人衆がいてそれぞれ浪人達の軍団を率いるという形です。治長の弟・大野治房や木村重成も軍団を率いましたが彼らは豊臣の直臣なので五人衆とは別の指揮系統になります。治長の直属部隊のようなものでしょうか。豊臣家の直臣ではない、浪人達のトップが五人衆という位置づけですね。

 

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大坂五人衆の武将たち

五人衆のメンバーと簡単な紹介をします。

真田 左衛門佐 信繁(さなだ さえもんのすけ のぶしげ)

本名(諱)は真田信繁です。一般には江戸時代に作られた架空の名前・真田幸村の方が有名です。左衛門佐は官名(位や役職みたいなもの)。

関ヶ原の戦いまでは信濃国で9万石の大名だった真田幸昌の次男です。信繁自身は、真田家から豊臣家に人質に出されましたが豊臣秀吉に気に入られ馬廻衆に取り立てられました。馬廻衆とは秀吉直属の武将。旗本のようなものです。1万4千~9千石の知行を与えられていたといわれます。

関ヶ原合戦では石田三成に味方しました。そのため、高野山の九度山村に幽閉となります。大坂の陣の前に豊臣秀頼の招きで大坂入りしました。

信繁が担当した砦・真田丸での戦いは有名です。冬の陣では徳川方に大損害を与えました。夏の陣では道明寺の戦い、天王寺口での戦いに出陣。徳川家康の本陣を脅かし。伝説的な英雄となります。

大河ドラマ「真田丸」では真田信繁という実際の名前で通してきましたが、大坂の陣では”幸村”に改名しました。ドラマ的な演出としても面白いですが、一部の歴史ファンの間でも「真田信繁と名乗っていたが大坂の陣で幸村の名前を使った」という説も人気があります。世間的には”幸村”の名前で広まってますし、テレビドラマ的には”幸村”の名前は外せませんよね。

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 →真田信繁 伝説となった大坂の陣

 

後藤 又兵衛 基次(ごとう またべえ もとつぐ)

本名(諱)は後藤基次ですが、通称の後藤又兵衛が有名です。

播磨国黒田官兵衛に仕えました。一時期黒田家を離れていたことがありますが、秀吉の九州攻めのときには黒田家に戻っています。益富城(福岡県)の城主となり1万6千石を与えられました。官兵衛の息子・黒田長政とは仲が悪かったようです。黒田如水(官兵衛)の死後、3周忌を機会に黒田家を出ます。しかし長政が他の大名家に基次を召し抱えることを禁止したため。浪人生活を送ることになりました。

大坂の陣の前に大坂城に入ります。当初は真田信繁らに継ぐ身分として扱われましたが。同格の五人衆の一員となります。

大坂冬の陣では決まった陣地を持たず、兵の必要な場所に臨機応変に応援に駆け付ける遊軍として戦いました。木村重成の危機を救うなど活躍します。

夏の陣では、道明寺の戦いに出ますが先行しすぎて孤立してしまいます。後続の信繁たちが霧で追いつけなかったとも言います。伊達政宗らの部隊と戦って討ち死にしました。

大河ドラマ「真田丸」では相川翔演じる後藤又兵衛は強烈な個性で目立っています。堺雅人演じる真田幸村とときには衝突しながら次第に仲間として協力し合うという王道的な展開で、見るものを引き付けます。ドラマの戦場でも活躍が予感できそうな雰囲気ですね。

 

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 →後藤又兵衛基次、大坂の陣・道明寺で孤軍奮闘し散る

 

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毛利 豊前守 勝永(もうり ぶぜんのかみ かつなが)

本名(諱)は毛利吉政(もうり よしまさ)だといわれます。尾張国出身で父の代から豊臣秀吉に仕える武将でした。もともとの名字は”森”でしたが、”毛利”に改めました。中国地方の大名・毛利家とは血縁関係はありません。毛利輝元とも親交があり、関ヶ原の戦いでは毛利家とともに布陣したりと中国地方の毛利家とは多少の縁があります。

毛利家は豊前国小倉で6万石の大名となりました。関ヶ原の戦いでは父・勝信が小倉を守り、勝永が毛利家の部隊を率いて関ヶ原まで出陣しました。しかし戦では山の上で一緒にに布陣していた(中国の)毛利家が動かなかったため、勝永は戦わずして敗退。

しかし敗戦により領地は没収。土佐国山内家に身柄を預けられました。山内一豊と親交があったためだといわれます。

豊臣家と徳川家の戦いが始まると聞き、土佐を脱出して大坂に合流しました。五人衆の中ではもっとも豊臣家との縁が深いのが勝永でした。

大坂夏の陣では、徳川幕府の大軍相手に活躍、本多忠朝や小笠原秀政などの大名クラスの武将を打ち取り、幕府軍に大きな損害を与えます。勝永が大軍を引き付けたおかげで真田信繁がい家康本陣に突撃しやすくなったといわれます。総崩れとなる豊臣方の中でも最後までまともにたたえた数少ない武将でした。

最期は炎上する大坂城で秀頼の介錯をした後、自刃しました。

現在では知らない人も多いと思いますが、江戸時代や戦前には真田幸村、後藤又兵衛と並んで人気の高かった武将です。大坂夏の陣で一番活躍したのは実は毛利勝永だという研究家もいるほどです。大河ドラマ「真田丸」でも岡本 健一演じる毛利勝永はピリピリした感じを漂わせています。勇猛な武将として活躍が期待できそうですね。

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毛利勝永・幸村の突撃を演出した大坂夏の陣影の主役

 

長宗我部 土佐守 盛親(ちょうそかべ とさのかみ もりちか)

官名は土佐守。土佐国の大名・長宗我部元親の息子。元親の嫡男・信親死後に長宗我部家の後継者となります。浪人になる前は五人衆では最大の領地を持っていました。関ヶ原の戦いでは石田三成に味方して長宗我部軍を率いて出陣します。

毛利の部隊とともに南宮山に布陣しますが、毛利軍の家の先方を務めていた吉川広家は家康に内通していたため山を下りませんでした。後続の毛利、長宗我部軍は動けず戦わずして負けました。実はこのとき、毛利勝永も南宮山に布陣していたので一緒に敗軍になってしまいました。

関ヶ原の戦いのあと、領地は没収となり盛親は京で浪人生活を送ります。寺子屋をひらいていたとも言われます。元大名の危険人物ということで京都所司代の監視下にありました。

豊臣秀頼からの招きで京を脱出。大坂城に入ります。このとき元親のもとには旧長宗我部家の家臣が続々と集まり、その数は1000人近くになりました。浪人が従えてきた兵の数としては最大だったといわれます。後世の歴史家からは評価の低い盛親ですが家臣からは人望があったのかもしれません。

大坂夏の陣では、大坂城の南に布陣。真田丸・城南の戦いで活躍します。大坂夏の陣では八尾・若江の戦いで藤堂高虎隊を壊滅に追い込みますが、味方部隊が壊滅し孤立する危険があったため退却します。その後は、京に潜伏しますがつかまって処刑されます。最後まで家康の命を狙っていたといいます。

 

歴史上は大柄でいかつい外観の荒くれものされていますが、真田丸では強面の見た目とは正反対の戦嫌いの小心者というキャラとして描かれました。そのギャップにネットで騒然としています。関ヶ原に出陣しても戦わずに負けたり、寺子屋をしていたり、つかまると命乞いしたり(生き延びていつか仕返しをするための命乞いだそうです)という豪快さとは程遠いエピソードから発想したのかもしれません。

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長宗我部盛親・大坂の陣に土佐長宗我部家の再興を賭ける

 

明石 掃部 全登(あかし かもん てるずみ)

本当の名前は明石守重(あかしもりしげ)とも景盛(かげもり)ともいいます。全登は法名だという説あります。その場合は”ぜんとう”と読むのが正しいのかもしれません。備前国の武将で父の代に宇喜多家に仕えるようになります。全頭は宇喜多秀家の代では一時期家老をつとめることもありました。

宇喜多秀家は石田三成と共に挙兵しました。関ヶ原の戦いで敗れたため、宇喜多家は断絶。明石全登は浪人となります。一時期黒田家にかくまわれたこともあります。母親が黒田家と縁のあるため(黒田官兵衛もキリシタン。官兵衛の母が明石一族の出身)だったといわれます。

全登は熱心なキリシタンでキリシタン追放令のあとも信仰を捨てませんでした。大坂の陣では、キリスト教を認めてもらうためと、宇喜多家の再興のために大坂方に参戦。

大坂夏の陣では道明寺の戦いに参戦。後藤基次が討ち死にした後も、伊達政宗らを相手に粘り真田信繁らが到着するまで持ちこたえました。しかしこの戦いでは負傷。翌日の戦いでは天王寺・岡山口付近に布陣し、本陣への突撃の機会を狙ってました。しかし味方が壊滅。

その後、幕府方の包囲網を突破して脱出したとも、討ち死にしたとも言われます。歴史研究家の間では討ち死にしたとの説が有力です。

大河ドラマ「真田丸」では、キリスト教徒というイメージからか。戦国武将っぽくない、おとなしめのキャラに設定されています。

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明石 全登大坂の陣で行方不明になったキリシタン武将

 

 

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