時代劇や大河ドラマなどで徳川家康の軍が「厭離穢土 欣求浄土」と書いた旗を持って行進している場面があります。
「厭離穢土 欣求浄土」は「おんりえどごんぐじょうど」と読みます。
でもいったい、どういう意味なのでしょうか?
なぜ徳川家康は馬印にしたのでしょうか?
旗印の謎について紹介します。
厭離穢土 欣求浄土の読み方
「厭離穢土」は「おんりえど」または「えんりえど」といいます。文献によって読み方が違うときがありますが。どちらでもいいです。
「欣求浄土」は「ごんぐじょうど」と読みます。
続けると「厭離穢土 欣求浄土」は「おんりえどごんぐじょうど」となります。
厭離穢土 欣求浄土 の意味
「厭離穢土 欣求浄土」の言葉は浄土信仰から来ている言葉です。
意味は
穢れた世の中・国土を嫌(厭)って離れ、浄土に生まれることを心から喜( 欣)んで求める。
というもの。
平安時代の天台宗の僧侶・源信(げんしん)が985年に書いた「往生要集(おうじょうようしゅう)」には「厭離穢土」「欣求浄土」のタイトルが付いた章があり。そこからとられています。
「往生要集」は日本に浄土信仰を広めるきっかけになった本です。宗派に関係なく 「往生要集」は人々に読まれ。浄土信仰のバイブルになりました。
法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)も往生要集を参考にしながら自分の教えを広めました。そのため「厭離穢土 欣求浄土」は浄土宗や浄土真宗でも大切な言葉になっていました。
徳川家康は当時の世の中は人々が私利私欲で争う醜い時代と考え。「争いに満ちた穢れた世の中を嫌い、平和な浄土を求めるなら、仏の加護を得てそれが達成できる」と考えたようです。
徳川家康が厭離穢土 欣求浄土を旗印にした理由
徳川家康が「厭離穢土 欣求浄土」の言葉を旗印にしたことは幾つかの文献にかかれています。
大坂の陣について描いた軍記物の「難波戦記」には
家康の旗は「白布に、墨で”厭離穢土欣求浄土”と書いている。これは三河国の浄土宗 大樹寺の和尚 登誉上人の筆である」と書かれています。
「厭離穢土欣求浄土」の言葉は登誉が書いた事がわかります。
さらに詳しくどういう経緯で家康の旗印になったかは幾つか説があります。
祖先の墓前で自害しようとした時に止められた
一般に言われているのは以下の説。
永禄3年(1560年)5月19日。桶狭間で今川義元が討ち死に。
松平元康(後の徳川家康)は当時、今川軍として戦い大高城を守っていました。今川義元の討ち死にを知った徳川家康はいったん偵察をして今川義元の戦死を確認。
大高城を出て岡崎城に向かおうとしましたがそこには今川の兵がいました。そこで、
20日。松平家菩提寺の大樹寺に入りました。
寺の言い伝えでは。元康は松平家祖先の墓前で自害しようとしたところ、寺の住職・登誉天室から止められ、そのとき「厭離穢土 欣求浄土」を教えられた。と言われます。
大樹寺に伝わる話では「穢れた世を嫌い平和な浄土のような世をめざせ」という意味があるようです。
三河一向一揆と戦う旗印に
江戸時代に書かれた「柳営秘鑑」という本には次のようなことが書いています。
徳川家康が永禄5年(1562年)~7年(1564年)にかけて三河国の一向一揆と戦っていた時。
大樹寺の住職・登誉が家康に味方して家康の旗に自ら「厭離穢土欣求浄土」と書いた。とあります。
当時、一向宗は「進是極楽退是無間地獄」と書いた旗を掲げていました。「前進すれば極楽、退却すれば無間地獄」という意味です。まさに特攻精神です。死を恐れずに戦う一向宗の怖さはここにあります。
それを知った登誉は家康の旗に「厭離穢土 欣求浄土」と書いたとか。
「この世は穢れた世で、喜んで浄土を求める」は「生きることに執着するのではなく、死を恐れない」という意味があるようです。
この旗印で戦った家康は三河一向一揆を鎮圧。それ以来、家康は「厭離穢土欣求浄土」を旗印にするようになったといいます。
「柳営秘鑑」は徳川家や臣下の家に伝わる由緒話をもとにしています。三河武士は「死んだら浄土に行けるのだから死を恐れずに戦え」と理解したのかもしれません。こちらも一向宗と同じ特攻精神のような考え方です。イスラム過激派みたいです。
ただし「柳営秘鑑」は1743年成立。家康の死後100年以上経って書かれた本なのでどこまで本当かはわかりません。
浄土信仰では殺生をしても浄土に行けます。人間の考えた善悪は関係なく、阿弥陀如来はすべての者を救ってくれるので阿弥陀如来さえ信じていれば極楽浄土に行けます。実際には念仏してもすぐには浄土には行けませんが。庶民への浄土信仰の広まり方を見る限りでは信じて念仏するだけで浄土に行けるかのような広め方をしています。だから浄土信仰は戦国の武士にも広まりました。
寺に伝わる話では死を止めさせるための言葉として。
「柳営秘鑑」ではむしろ死を奨めるかような内容。
全く逆の解釈です。僧侶と武士とでは考え方が違うのかもしれません。
徳川家康本人がどう思っていたかは今となっては謎です。
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