泰姫・近衛尋子 水戸光圀の正室とは?

江戸時代

泰姫(たいひめ)は水戸藩 2代藩主・徳川光圀の御簾中(ごれんじゅう)

本名は近衛尋子(このえ ちかこ)です。

御簾中とは公家や地位の高い人の妻(正室)のことです。

公家出身で、光圀とは仲が良かったようです。

でも病気のためわずか21歳でこの世を去ってしまいました。

泰姫・近衛尋子とはどんな人だったのでしょうか。

 

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泰姫・近衛尋子 とは

 

名 前:近衛尋子(このえ ちかこ)
通称:泰姫(たいひめ)、台姫
院号:法光院
諡号:哀文夫人
生 年:寛永15年(1638年)10月
没 年:万治元年閏12月23日(1659年2月14日)
享 年:21
父:関白左大臣・近衛信尋 
母:権大納言・藪嗣良の娘
子:なし

おいたち

泰姫・近衛尋子は寛永15年(1638年)10月に京都で生まれました。

父は関白左大臣・近衛信尋 (このえ のぶひろ)
後陽成天皇の第四皇子で近衛家の養子になりました。近衛家は藤原氏ですが、信尋があとを継いだことで皇室の血を受け継ぐ摂関家になりました。

母は権大納言・藪嗣良 (やぶ つぐよし)の娘。藪家も藤原北家のひとつです。

慶安2年(1649年)10月11日。泰姫が12歳のとき、父 信尋(51)が死去。

 

水戸の徳川光圀と結婚

慶安5年(1652年)。泰姫が15歳のとき。水戸藩の徳川光国(後の光圀)との縁談がほぼまとまりました。光国は当時25歳。光国は水戸藩の跡継ぎに決まっていました。

9月。幕府から結婚の許可が出ました。

承応2年(1653年)7月19日。兄の近衛尚嗣が死去。そのため婚礼は延期になったようです。

承応3年(1654年)春。京都を出発して江戸の水戸藩邸に入りました。

4月14日。光圀との婚礼が行われました。
このとき光圀は27歳。
泰姫は17歳。

明暦2年(1656年)。前摂政・二条康道から「尋子(ちかこ)」の諱が命名されました。

明暦3年(1657年)1月。明暦の大火が起こり、江戸の水戸藩邸が全焼。泰姫は光圀とともに駒込の別邸に移りました。

明暦3年(1657年)8月ごろから泰姫は体調を崩しました。その後、何度か小康状態になりましたが病状は回復しませんでした。

さらに万治元年(1658年)10月ごろから赤痢になりました。

万治元年(1658年)閏12月23日。泰姫が死去。享年21。

泰姫の遺体は水戸に運ばれ薬王院(水戸市元吉田町)に葬られました。

泰姫は京都を出た後はずっと江戸で暮らしていたので。生前は水戸に行ったのは死後になります。

延宝5年(1677年)。瑞竜山に改葬されました。

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泰姫の逸話

当時の慣習通り親同士の決めた結婚ですが。光圀との仲は良かったようです。

泰姫は和歌に優れ教養もありました。

光圀に仕えた和学者・安藤年山によると、泰姫は古今和歌集、伊勢物語を暗記していたといいます。八代集(古今和歌集・新古今和歌集)や源氏物語にも興味がありよく覚えていました。

和歌や物語だけでなく漢詩にも興味を持ち三体詩を暗記していました。三体詩は唐の時代の漢詩を集めた詩集。日本の漢詩愛好家に人気がありました。

儒学者の辻了的は泰姫を「天姿婉順(てんしえんじゅん)」と評価しました。姿や性格がおしとやかで素直なこと。安藤年山も泰姫の学識だけでなく生質(性質)の良さを称賛しています。

泰姫は家集の「香玉詠藻」を残しました。「家集」とは個人またはその家の者の詩を集めた詩集のこと。「香玉詠藻」には90あまりの和歌が載っています。

また漢詩を2つ作っています。漢詩を作った女性は珍しいです。

 

また。光圀は泰姫の死後。泰姫のことを偲ぶ漢詩を作っています。

光圀は泰姫の死後は正室を迎えることはありませんでした。

 

 

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