明治維新の転換点となった鳥羽伏見の戦い。このとき、同じ日に京都の鳥羽と伏見が舞台となり旧幕府軍と新政府軍が戦いました。
慶応4年1月3日(1868年)。鳥羽の小枝橋付近で始まった戦いは2日目に突入しました。
今回は鳥羽の戦いの2日目、主な戦場になった富ノ森という場所を紹介します。
一時は優勢に戦う旧幕府軍でしたが錦の御旗で逆転
1月3日の小枝橋の戦いで敗北した旧幕府軍は軍を立て直して、4日早朝から戦闘を開始しました。
鳥羽での戦いははじめは幕府軍が優勢に戦っていました。旧幕府軍は数が多いですし、幕府直属の部隊は最新装備を持っていました。新政府軍とも互角に戦えたのです。
ところが旧幕府軍の司令官 佐久間信久らが相次いで戦死。すると幕府軍は劣勢になってしまいます。幕府軍の司令官が相次いで戦死したのは薩摩軍が司令官を狙撃する作戦をとったからのようです。
粘る旧幕府軍でしたが、そこに新政府軍に援軍が到着。
朝廷から征討大将軍に任命された仁和寺宮嘉彰親王率いる軍でした。この援軍が「錦の御旗」を掲げていたことから旧幕府軍は大混乱します。
下の写真は城南宮で公開されている錦の御旗が掲げられた時の様子を描いた絵です。
城南宮は薩摩軍の陣地になった場所なのでゆかりの品が残ります。
錦の御旗は岩倉具視が大久保利通に作成を指示したもの。3日には朝廷から使用許可がおありて薩摩軍本陣の東寺に掲げられました。4日になって援軍と共に鳥羽にやってきました。
指揮官を失った旧幕府軍に軍を立て直す力はなく、兵たちは鳥羽街道を北に敗走しました。
しかも狭い鳥羽街道では大軍は思うように動けません。混乱した兵は狭い街道にひしめき合っていたのでしょう。
鳥羽街道は現在は千本通と呼ばれます。現在でも当時の道幅そのままだと考えられます。
自動車のない時代は十分な広さの街道だったのでしょうね。でも数千の大軍が動くには狭かったと思います。
富ノ森の戦い
混乱する旧幕府軍は富ノ森(京都市伏見区横大路富ノ森町)まで撤退。
富ノ森は鳥羽街道沿いにある古い集落です。お寺も残ります。
集落をぬけるとひらけた場所に出ます。桂川と田畑に挟まれた街道がしばらく続きます。旧幕府軍はこのあたりに陣地をつくっていたのでしょう。
陣地に逃げ帰った旧幕府軍はここで抵抗を続けたようです。
千本通(鳥羽街道)の横を桂川が流れています。景色のいい場所です。でも川に阻まれて逃げ場が限られるので兵たちにとっては厳しい戦いになってしまったようです。
逃げる幕府軍に対しても薩摩軍の容赦のない攻撃があったのでしょう。
淀に向かう途中の妙教寺(京都市伏見区納所北城堀)には薩摩軍のはなった大砲の跡が残ります。大砲の弾が貫通したあとがお寺の壁にあるのをテレビで見たことがあります。柱には銃痕らしきものもありました。
このあたりでも大勢の戦死者が出たようです。敷地内には慰霊碑があります。
慰霊碑には「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻まれています。
ちなみにこのあたりは豊臣時代の淀城があった場所です。淀殿の居城になったお城ですね。淀古城ともよばれます。堀が水路として残る程度で城の面影を残すものはありません。「北城堀」「南城堀」など城があったことを思わせる地名はいくつか残ってます。
現在の淀城跡として知られる城は江戸時代に作られたものです。
しかし旧幕府軍は富の森の陣地も突破されます。
旧幕府軍は淀城に撤退します。
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