西郷菊次郎は西郷隆盛の長男です。
西郷隆盛が奄美大島で生活していた時代に愛加那との間で産まれた子供です。菊次郎は長男ですが菊次郎の名前がつけられました。
明治維新後、鹿児島の西郷家に引き取られ、隆盛とともに西南戦争を戦い、その後は政府役人になりました。また、菊次郎は京都市の近代化に務めた人物でもあるのです。
西郷菊次郎とはどんな人だったのか紹介します。
西郷菊次郎とは
名 前:西郷菊次郎(さいごう きくじろう)
生 年:万延2年1月2日(1861年)
没 年:昭和3年11月27日(1928年)
父:西郷隆盛
母:愛子(愛加那)
妹:菊子
妻:久子
子:隆吉、隆治、隆秀、隆泰、隆清、準
1861年。奄美大島の龍郷で産まれました。父は西郷隆盛。母は愛加那。
西郷隆盛は安政の大獄で幕府に狙われたため、菊池源吾と名を変えて奄美大島でくらしていました。愛加那は奄美大島の有力者・龍一族の娘。
西郷にとっては長男でしたが、愛加那が正妻ではなかったため太郎の名は与えられませんでした。
西郷が奄美大島を去った後は、奄美大島で育てられました。
9歳の時。鹿児島の西郷本家に引き取られます。
12歳のとき、アメリカに留学しました。
2年6ヶ月後、留学を終えて帰国しました。
西南戦争に従軍
明治10年(1877年)。17歳のとき西南戦争に従軍。父・隆盛と共に薩摩士族軍の一員として戦いました。
現在の宮崎県延岡市付近で行われた和田越えの戦いに参戦しました。隆盛が直接指揮をとった戦いといわれます。薩摩軍3000と、山県有朋率いる官軍50000が戦った西南戦争最後の激戦地です。この戦いで薩摩軍は多くの死傷者が出ました。菊次郎も右足に銃弾を受けて負傷しました。
薩摩軍は俵野に退却。薩摩軍は負傷兵を残して高千穂に移動しました。
西郷家の家人・永田熊吉は菊次郎を背負って官軍に投降しました。官軍の指揮官をしていた西郷従道は甥が助かったことに喜び、熊吉に例をいいました。
政府役人になる
23歳のとき、外務省に入りました。アメリカ公使館や本省に勤務。
明治20年。再びアメリカに留学しました。
明治23年。帰国後に宮内省に勤務しました。
日清戦争で日本が台湾を得ると、台湾に赴任。基隆(現在の新北市)支庁長、宜蘭(現在の宜蘭県)長官を務めました。
京都市長になって近代化に貢献
幕末の混乱と遷都のため京都は衰退していました。明治から大正にかけて京都市を近代化させるための事業がいくつか行われています。これらの近代化計画は”京都100年の大計”とよばれます。
西郷菊次郎が京都市長になった明治後半は近代化計画の仕上げの時期と言ってもいいでしょう。
京都は明治に入って江戸時代後期より10万人人口が減って23万人になっていました。しかし数々の近代化計画で明治30年代になると人口が増加。明治32年には36万人にまで増えました。人口が増えるとエネルギーと物流が問題になります。初代市長・内貴甚三郎は都市改造の必要性を訴え
日露戦争や金融不安で中断しました。
明治37年(1904年)。西郷菊次郎が2代目の京都市長になりました。
西郷菊次郎は京都の市議会や経済界に対して改めて京都の近代化を訴えました。
金融不安がおちついた明治39年。西郷菊次郎は中断していた京都改造計画を再開させます。
特に力をいれたのが第二琵琶湖疏水、上水道整備、道路拡築および市電敷設です。菊次郎はこれらの事業をまとめて「三大事業」とよびました。
ところが工事費は京都市の収入の15倍も必要でした。
菊次郎は「実に百年の大計を図る上において、最も有益なるのみならず、その財源を外資に仰がんとする上においても恰好なる事業と信じる」と延べ、外資を導入してでも近代化を進める決意を表しました。
事実、第二琵琶湖疏水は国内で資金調達でできましたが、他の2つの事業はフランスで外積を発行して資金調達しました。
このような多額の資金を調達しての工事に保守的な市会や市民からも反対意見は出ました。それでも菊次郎は京都の近代化を進めました。
明治44年(1904年)。西南戦争で負傷した右足の症状が悪化。病気を理由に辞職しました。約7年市長を務めました。
鹿児島で余生を送る
京都市長を辞任後は鹿児島の郷里に戻りました。
明治45年(1905年)第二琵琶湖疏水が完成、市電の一部が運転開始するなど。菊次郎が手がけた近代化計画は菊次郎が辞任したあとも引き継がれ完成します。
島津家管理の山ケ野金山鉱業館長になりましたが、病気が回復せず大正9年に辞職しました。
昭和3年11月27日(1928年)。鹿児島市薬師町の自宅で心臓麻痺のため死去しました。享年67.
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