真田信之(3)上田藩時代

真田家

関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した真田信幸。

西軍についた父・昌幸と弟・信繁は九度山で幽閉されました。

信幸は真田家の領地9万石を引き継ぎ。
上田藩9万石の大名となったのでした。

名前も父から授かった信幸の名を信之に変えました。

しかし、戦が終わっても藩主となった信幸には新たな難題が降りかかってきたのです。

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信之の上田藩領国経営

日本国を二つに分けた戦いは終了しました。

相次ぐ戦乱により、上田の領地は荒廃していました。

真田昌幸は徳川軍と戦って退けはしましたが、子供から老人までを駆り出しての総動員で戦を行ったために田畑を棄てて逃げ出す村人が多かったのです。

徳川幕府のもとでは領地の経営に失敗することはそれだけでも取り潰しの口実になります。

真田家は秀忠にとって印象がよくありませんから、よけいに慎重な経営が求められました。

信之は逃げ出した百姓は帰ってきても処罰しないことを約束し、戻ってきた百姓には米一俵を支給しました。それでもなかなか百姓は戻ってきません。

慶弔11年(1606年)。戻ってきた百姓には税を三年間免除。不公平感を和らげるため。現在、耕作を行っている百姓には税を半分にしました。

信之は沼田から上田に移って上田領の安定に専念します。沼田3万石は、嫡男・信吉が治めることになりました。城の工事など領民に負担を強いる政策は行わず倹約に努めます。

こうして16年後の松代に移るころには20万石もの資産を貯めることができました。

領国経営でも、難題を乗り切ったといえます。

父を援助

信之の父・昌幸と、弟・信繁は関ヶ原の戦いのあと九度山に送られました。

信之はその後も、父が戻ってこられるように恩赦を求めて活動しますが実現はしませんでした。

昌幸・信繁のため、生活費の援助を行います。

慶長16年(1611年)昌幸が九度山で亡くなりました。
信之は父の葬儀をおこないたい本多正信に相談します。でも正信からは「当面は見合わせるように」との返事があり実現しませんでした。

昌幸の一周忌が終わると、昌幸に仕えていた家臣の多くが信之のもとに戻ってきます。このとき、信之は戻ってきた家臣に「父・昌幸存命中の奉公、奇特千万(たいへん感心する)である」とねぎらいの言葉をかけ知行を与えています。

つまり、真田家が信之派と昌幸派に分裂していたのではなく、彼らは真田家臣の役目として前当主の護衛のために派遣されていたのかもしれません。

信繁に従うものはそのまま九度山に残りました。

九度山では昌幸と信繁は別々に屋敷をかまえ、家臣もその周辺に住んでいました。昌幸に従うもものと信繁に従うものはある程度は決まっていたのでしょう。

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大坂の陣

慶長19年(1614年)。大坂の陣が起きました。

弟の信繁が九度山を抜け出して大坂方に味方します。しかも信之の治める領地にも決起を求める書状が送られてきます。領内からは一族の真田勘解由や堀田作兵衛ら百数十人信繁に合流しようと出て行ってしまいました。

せっかく徳川幕府の元で生き残った信之にしてみれば、頭の痛い問題だったでしょう。

しかも、幕府からは出兵の命令が出ていますが、信之は病気(中風)のため出陣できません。
妻・小松姫の根回しで「信之が出陣できないなら息子が出陣するように」との許しが出ました。

そこで長男・信吉と次男・信政を代理にたて、矢沢頼康と小山田茂誠という重臣のトップクラスを付けて出陣させました。

信吉と信政は無事に帰って来ます。

しかし、大坂の陣に弟信繁が参戦したとことで真田家は幕府から疎まれる存在になります。信繁個人の名声は上がりましたが、上田の真田家にとってはむしろ逆風でした。

上田藩から大坂方に味方したものが出たことは幕府に知られてしまいました。幕府からは上田領内に大坂方に味方したものがいないか探すように命令が出ます。
しかたなく信之は領内を探して何人かを幕府に引き渡しました。その中には堀田作兵衛の家族も含まれていたといいます。しかし、ここで信之を責めるわけには行きません。幕府に逆って潰されれれば、家臣たちが浪人になってしまいます。親子を分けてまで生き残った意味がありません。信之としてはつらい立場です。

信之は藩を守るため大坂に味方したものには厳しい処分を与えました。ここで潰されては、何のために親子が敵味方になったのかわかりません。大坂に出て行った作兵衛たちもそれは覚悟の上でしょう。

徳川秀忠とその側近は口実をみつけて改易しようと考えていたのです。しかし、信之は付け入る隙を与えません。

 

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移動命令に衝撃が走る

上田藩の経営が安定してきたころ。

元和6年(1620年)信之の正室・小松姫が亡くなります。信之は「灯火が消えた」と嘆きます。徳川と真田家を結ぶ重要な役割を果たしていました。

その2年後。元和8年(1622年)。信之は幕府から松代藩への移動が命じられます。

一説には、将軍・徳川秀忠の嫌がらせとも言われます。上田城では徳川軍は二度、苦杯をなめさせられています。特に二回目の上田攻めでは秀忠自身が指揮をとり失敗、家康にひどくしかられるという嫌な思いがあります。

さ らに、1614年大坂の陣では上田藩主・真田信之の弟・真田信繁が大坂に味方して徳川軍と戦い家康を追い詰める働きぶりをみせます。上田藩としてはかなり 気まずい雰囲気になっていました。世の中では真田が秀頼に忠義を尽くして徳川に一泡吹かせたとして話題になっていました。後の時代では「真田幸村」の忠義 は幕府も黙認することとなりました。しかし、戦の記憶を持つ者が多いこの時期では、真田は徳川にとっては嫌な印象を受ける存在でした。

そんな中で、徳川との縁をとりもつ小松姫が亡くなりました。

しかも、幕府から松代への移動が命令されます。ようやく領国が安定した時期の移動。またしても信之に難題が待ち構えていたのでした。

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