真田信吉・信之と清音院(こう)の息子

真田信之の息子、真田信吉(のぶよし)。
信之と清音院(ドラマ真田丸では こう)との間に生まれました。

大坂の陣では病気で出陣できない父・信之のかわりに出陣。
叔父・真田信繁とも対面しました。

信之が沼田から上田に居城を移すと、
あとを継いで沼田城主となります。

真田家の血が強い兄の息子ということで、
晩年の真田信繁にとっては
数少ない親しみの持てる人物だったようです。

真田信吉とはどんな人物だったのでしょうか。

 

 

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信之と清音院(こう)の息子・真田信吉

 

信幸の長男、信吉(上野沼田城 初代城主)は清音院 が産んだという説が有力です。

生まれは文禄4年(1595年)。小松姫が来た後・・・。

やっぱり、歴史上は小松姫が来た後も 清音院 は生きてたんですね。

ちなみに信之を中心にして真田一族を描いた小説(NHKで時代劇にもなりました)真田太平記では信吉は小松姫の息子ということになってます。

池波正太郎作品では信之と小松姫の関係がかなり強くて、他の女性のあつかいは小さいです。というより、清音院が出てこないです。

「真田太平記」はあくまでも池波正太郎という個人が考えていた真田家の姿です。「真田丸」の脚本家・三谷幸喜には彼なりの真田家のイメージがあると思うので、どう違うのかを比べてみるのもおもしろいと思います。

 

大坂冬の陣

 

信吉は、病になった信之の代わりに弟の信政とともに大坂の陣に参戦します。

小松姫の兄弟・本多忠朝の指揮下に入ります。
信吉にとって初陣でした。
冬の陣では真田家の部隊は真田丸への攻撃には加わっていません。
信繁とは直接戦うことはありませんでした。
真田家の人間ということで大坂城にいる信繁に内通するのではないかと疑われていたようです。

信繁が六文線の旗を揚げたとき、それを聞いた徳川家康が
「河内め裏切ったな」
と言ったとか。
ちなみに、信吉は河内守の官位を授かっていました。

そのときは信吉と親しい井伊直政がなだめて治まりましたが、
敵方に叔父がいるということで何かと風当たりは強かったようです。
そのため本多忠朝の指揮下に入っていたのかもしれません。

信吉は木村村重の部隊と戦います。
信吉達と戦った木村村重は、信繁にこんな報告しています。
「徳川側に六連戦の旗を掲げる部隊がいました。二人の若武者が真っ先に突っ込んできて柵に取り付こうとしていますが、誰なんですか?」

信繁は「あの旗は兄・信之のもの。兄の息子達でしょう」といい、さらに。
「彼らを討ち取ってください。木村殿の部隊と戦って討死すれば名誉なこと。わが一族の喜びになります」と伝えました。
本心は分かりませんが、武士である以上、そうでも言わないといけない立場だったのでしょう。
でも村重は
「この戦いは和睦になるでしょうから、後日あってください」
といい。配下には信吉と信政を鉄砲で撃たないように命令しました。
鉄砲に撃たれて討死することは不名誉なこととされていたのです。

 

叔父 信繁と会う

その後、信繁は信吉たちに気を使って六連戦の旗は使わずに真っ赤な旗を使うようになったということです。

冬の陣が終わり、休戦状態がおとずれます。
大坂城とにらみ合うように陣を張っている徳川勢の中に真田家の陣もありました。
信繁はたびたび真田家の陣を訪れ信吉達と会って話をしたといいます。
でも信繁は信政とはあまり話をせず、信吉と話すことが多かったといいます。

信吉の母は清音院。真田信綱の娘です。
信綱は正当な真田家の後継者で、真田昌幸も尊敬する長兄でした。
信政の母は小松姫。徳川家康の重臣、本多忠勝の娘です。

徳川に縁の深い信政より、
真田家ゆかりの血筋の信吉に親しみを持っていたのかもしれません。

信吉と信繁との間にはこんな会話があったともいいます。
信吉:「思い切ったところに砦を築きましたね」
信繁:「天下の軍が相手だから並みの手段では勝てませんからね」
信吉:「和睦にならなければ、つぶされていたことでしょう。無事で何よりです」
信繁:「あの砦をつぶす?それは相当難しいでしょう(笑)」

このあと、信吉と信繁は家臣たちと宴会しました。
このとき信繁は兄に会いたいものだと語ったともいいます。

信繁にとって甥である信吉と会う時間は、心の休まるひと時だったのかもしれません。

 

大坂夏の陣

 

大坂夏の陣では信吉たちは毛利勝永らの部隊と交戦します。
このときは奮戦するも家臣が盾となって討死するなど苦戦しました。
本多・真田軍を率いる本多忠朝まで毛利勝永に討ち取られてしまいます。

もっとも、本多忠朝は夏の陣で大酒を飲んで戦に遅れて失態を働いたため。
冬の陣では討死することで家の面目を保とうとしたせいもあります。
本多忠朝を守れなかったのは真田兄弟のせいではありません。

毛利勝永は江戸時代には真田幸村とならぶ英雄と言われた人物です。
相手が悪かったといえるでしょう。

そんな、信吉・信政兄弟ですが。
大坂の陣から無事帰ってみると。
「二人もいるのだから、どちらか討死すれば忠義を示せたのに」
と小松姫に言われる始末。
(信之が言ったという説もあります)
小松姫のスパルタぶりを象徴する話としてよくでてきます。

小松姫の兄・本多忠朝(異母兄妹です)は討死することで本多家の忠義を示しました。
そのことが頭にあったのは間違いないでしょう。

信吉は小松姫の実子じゃないから、という理由ではなかったと思います。

 

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大坂の陣の後

 

大坂の陣の後、
父・信之が上田に移ると沼田城3万石の城主になります。

信之が松代に移ったあとも沼田城主のままでした。
松代藩の所属となり、独立した藩ではありませんでした。
でも3万石なら、じゅうぶん大名といえる規模ですよね。

慶長19年(1614年)、酒井忠世の娘・松仙院と結婚します。
酒井忠世は江戸幕府の老中にもなった徳川の重臣です。
松仙院との間には男児はいませんが、長姫が生まれました。

側室との間に熊之助、信直と二人の男児がいました。
信吉は、二人の男児がいることは父の信之には黙っていました。

 

1635年、信吉は40歳で亡くなります。
父・信之よりも早い死でした。
信之は91歳まで生きたうえに、なかなか隠居が認められませんでした。
信吉は真田家を相続できないまま父より先に亡くなってしまいました。

正室との間には男児がいなかったため、
側室との間に生まれた熊之助が沼田領を相続します。
わずか4歳での相続でした。
その熊之助は、7歳で他界してしまいます。
その後、沼田は信直(熊之助の弟)と信政(信吉の弟)が分割して相続します。

 

歴史の資料をさがすと
信吉と信繁との間にも興味深い逸話があるのがわかります。
大河ドラマでは描かれるでしょうか?

 

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大河ドラマ真田丸での配役は広田亮平さん

ドラマで演じるのは広田亮平さんです。

実は大河ドラマには何度も出てるんです。功名が辻(2006年)で豊臣秀頼の幼少期、軍師官兵衛(2014)で竹中重義、花燃ゆ(2015年)で吉田小太郎役をやってるんですね。今までは出番は少なかったですが、今度は重要な役になりそうです。

 

 

 

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母:清音院(こう)

弟:真田信政

 

 

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