諏訪御料人・武田家に滅ぼされた諏訪家の姫は武田勝頼の母

武田菱

諏訪御料人は武田信玄(信晴)の側室。武田勝頼の母です。井上靖の「風林火山」では”由布姫”、新田次郎の「武田信玄」では”湖衣姫”といいいます。

井上靖の「風林火山」(2007年大河ドラマ)では”由布(ゆう)”という名前で登場します。強気な女性として描かれます。諏訪家が敗北すると周囲から自害を進められますが拒否して生き残ります。由布姫の美しさに惹かれた信晴は側室にしたいと思うようになりました。由布姫は山本勘助に説得され側室になります。でも側室になっても「武田は敵、寝首をかいてやる」と気高さは失いません。しかしやがて信晴を憎みつつも惹かれていく自分に気がついて苦悩するようになります。

新田次郎の「武田信玄」(1988年大河ドラマ)では”湖衣姫(こいひめ)”という名前で登場。諏訪家の人質として武田家に来て、信玄の初恋の人”おここ”とそっくりの容姿をしています。一度逃亡しますが連れ戻されて側室になりました。自らを諏訪家と武田家の橋渡し役と考える健気な女性として描かれます。

諏訪御料人について資料が少ないためドラマや小説などでは製作者によってかなり違う描かれ方をしています。

諏訪御料人とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 諏訪御料人とは

 

名 前:不明
通称:諏訪御料人
生 年:天分元年(1532年)ごろ?
没 年:弘治元年(1555年)
父:諏訪頼重
母:小見氏
夫:武田信玄
子:武田勝頼

 

諏訪家とは

信濃国上原城(長野県茅野市)の諏訪頼重の娘です。諏訪家は代々諏訪神社の大祝(おおほおり)を出してきた一族です。諏訪神社では大祝は神職の一番高い役職でした。神職と入っても現代とは違い、領主も兼ねていました。当時の神社は広大な領地を持っていました。諏訪家は鎌倉時代には幕府の御家人でしたので武家としての性格もありました。

領主として土地も治めながら諏訪神社の神官も出すというのが諏訪一族でした。

戦国時代になると周辺の領主との争いも激しくなりました。甲斐国武田氏とは争ったり同盟したりを繰り返します。

武田信虎の時代。諏訪家の内紛がもとで諏訪家と武田信虎は対立しました。
このころ諏訪御料人は生まれたと考えられます。
天文4年(1535)。諏訪家と武田信虎は和睦。
天文9年(1540)。武田信虎の三女、禰々姫が諏訪頼重に嫁いで諏訪家と武田家は同盟を結びました。つまり、武田晴信と諏訪頼重は義兄弟になったのです。
諏訪頼重は武田信虎、村上義清と同盟して、信濃国佐久・小県の滋野一族を攻めます。海野氏は上野国の関東管領・上杉憲政を頼って落ち延びました。

天文10年6月(1541)。武田信虎が武田晴信に追放されます。

上杉憲政は信濃国佐久郡へ侵攻。高遠頼重は上杉憲政と和睦、同盟を結びました。信濃の領地を上杉と諏訪で分けました。しかし頼重が武田晴信と村上義清に無断で和睦したため、晴信との中が険悪になりました。

天文11年7月(1542)。晴信は諏訪神社の大祝の地位を狙う高遠頼継と手を結び、諏訪領に攻めてきました。

上原城を攻められた諏訪頼重は桑原城に逃げ延びます。
7月。諏訪頼重は降伏。武田家の本拠地甲府に移されたあと東光寺に幽閉され自刃に追い込まれます。

武田信晴(信玄)の側室になる

天文14年(1545)。諏訪頼重の娘、諏訪御料人は武田信晴の側室になります。「甲陽軍鑑」によると諏訪御料人は14歳。かくれなき美人、つまり当時有名になっていたほどの美人でした。

晴信が諏訪御料人を側室にした時、武田家の重臣は反対しました。それもそのはず諏訪家は武田家の敵だったからです。しかし、山本勘助が「諏訪家の家臣を取り込むためにも必要」と説得したのでした。

征服した相手を皆殺しにするのではなく血筋のひく女性を妻に迎えその子に領地を治めさせるのは、世界中で昔から行われてきたことでした。特に日本では多かったようです。全く関係ない人が来て領主になれば人々の抵抗は大きくなります。昔からの領主の血筋の者であれば人々の抵抗も少なくなると考えられたからです。

戦国大名も新しい領地すべてに直属の家臣を置くことは難しく、地元の領主を味方にするほうが効率的でした。

晴信は諏訪家を禰々夫人の産んだ寅王丸に継がせようとしていたといいます。

天文15年(1543)。諏訪御料人と信晴との間に男児が生まれました。それがのちの武田勝頼です。

晴信は寅王丸を跡継ぎの座から外して仏門に入れてしまいました。しかしその後の即席は不明です。諏訪家の反乱に巻き込まれて死んだとも上杉謙信を頼って落ち延びたとも言われます。

勝頼は諏訪家の跡継ぎになりました。

勝頼を産んだ後の諏訪御料人の記録は殆どありません。出産後に亡くなったとも、故郷の諏訪に帰ったともいわれます。

弘治元年11月6日(1555)。病気でなくなります。まだ20代だったといわれます。墓は長野県伊那市高遠町の建福寺にあります。

諏訪家を継いだ勝頼はやがて武田家の陣代(信玄の孫・信勝が成人するまで一時的に武田家を治める人)となります。勝頼は武田家を相続したわけではありませんでした。諏訪出身の勝頼は甲斐の重臣から信頼を得ることができず武田家の結束は乱れ滅亡に向かいます。

諏訪御料人と勝頼の生い立ちが武田家の命運をも左右することになったのでした。

 

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武田勝頼はどんな人?

 

登場するドラマ

天と地と 1969年、NHK大河 演:中村玉緒
風林火山 1969年、NETテレビ 演:栗原小巻
武田信玄 1988年、NHK大河 演:南野陽子
風林火山 1992年、日本テレビ 演:古手川祐子
風林火山 2006年、テレビ朝日 演:加藤あい
風林火山 2007年、NHK大河 演:柴本幸

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