田畑政治は1964年の東京オリンピック誘致活動の中心になった人です。
オリンピック開催だけでなく、水泳やスポーツ全般についても発展のために尽くしました。
東京オリンピックの意義は単に国際的な大会の日本開催だけではありません。新興国の経済発展を見せる大会とも異なります。戦争で負けて打ちひしがれていた日本人に再建への意欲を高める大きな意味がありました。東京オリンピック開催にあわせて競技施設、宿泊施設はもちろんのこと新幹線や首都高速道路が整備され、その他の様々な変化が起こりました。
その東京オリンピック開催に尽力した田畑政治三とはどんな人だったのでしょうか。
田畑政治(たばた せいじ)とは
名 前:田畑政治(たばた せいじ)
生 年:明治31年(1898年)
没 年:昭和59年(1984年)
出身:静岡県浜松市(しずおかけんはままつし)
田畑政治は静岡県浜松市に産まれました。
浜松は水泳の盛んな土地でした。浜名湖では浜松中学校(現在の浜松北高等学校)の卒業生たちが中心になって水泳の訓練が行われていました。
一高、東京帝国大学をへて1924年、朝日新聞社に入社しました。
政治記者になる一方で、そのかたわら水泳指導にも力を尽くしました。
大正11年(1922年)。全国学生水上競技連盟の結成に関わりました。専用プールを作ること信頼できる監督をおくことなど精力的に活動。若手水泳選手の育成に取り組みました。
その結果、昭和3年(1928年)。オリンピック・アムステルダム大会では水泳で初の金メダルを獲得。1932年ロサンゼルス大会、1936年ベルリン大会でも日本水泳陣は活躍しました。
昭和14年(1939年)には大日本水上競技連盟(現在の日本水泳連盟)の理事長になりました。それまで会長だった末弘厳太郎が大日本体育会(日本体育協会)の会長になったのでその補佐をするため理事量に選ばれたのです。
田畑は戦後、「敗戦で打ちひしがれている日本人に祖国再建の気概をもってほしい。そのためにはなんとか東京でオリンピック開催を」と早くから日本でのオリンピック開催を訴えていました。
昭和23年(1948年)のロンドンオリンピックでは敗戦国の日本は参加を拒絶されました。オリンピックだけでなく国際大会への参加も認められない時代でした。
しかし日本には古橋廣之進・橋爪四郎らオリンピック出場すればメダルが期待できる優秀な選手がいました。そこで日本選手の優秀性をみせるため、ロンドンオリンピック開催と同じ日に日本選手権を行いました。その結果、古橋廣之進が当時の世界記録を超える記録を出します。この大会は国際社会から認められたものではないため、幻の世界記録となってしまいましたがこうした活動は後に実を結びます。
1949年。日本は国際水泳連盟加盟(FINA)への加盟が実現しました。国際大会への参加が認められたのです。
昭和27年(1952)。ヘルシンキオリンピック、メルボルンオリンピックでは日本選手団の団長を務めました。
このころから東京オリンピック開催について本格的に考えるようになります。
昭和33年(1958年)。東京オリンピック招致委員会が設立。田畑は招致活動の中心事物となりました。以前から親交のあったフレッド・イサム・ワダなどを招致委員に招き、招致活動を行いました。
昭和34年(1959年)。東京オリンピックが1964年に開催されることが決定しました。大会組織委員会の事務総長に就任しました。当時、日本の活躍がめざましかった女子バレボールを正式種目に加えるなどのロビー活動を積極的に行いました。
昭和48年(1973年)。日本オリンピック委員会(JOC)の会長を務めました。
田畑は日本の水泳、スポーツ、オリンピックの発展に尽くしました。
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