五代友厚・大阪経済の大恩人の生涯

五代友厚は幕末の武士。明治の実業家です。

明治維新後に衰退した大阪の経済発展に貢献しました。

明治の財界人では「西の五代、東の渋沢」といわれます。

しかし五代本人は自分の財閥を築くことには興味がなく、人との共同で事業を起こし大阪の経済発展に貢献しました。

五代友厚について紹介します。

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五代友厚 とは

名 前:五代 友厚(ごだい ともあつ)
通称:才助
幼名:徳助
生 年:天保6年12月26日(1836年2月12日)
没 年:明治18年(1885年)9月25日
生誕地:薩摩国鹿児島城下(鹿児島県鹿児島市長田町)
享年:満49歳
父:五代 左衛門 秀尭)ごだい なおざえもん ひでたか)
母:豊子(よしこ)
子:

五代友厚は 天保6年(1836年)、薩摩の武士・五代秀尭の次男として生まれました。
五代家が島津家に仕える武士。家禄は400石程度。島津家の家臣では高いほうです。

父・五代直左衛門秀尭は島津家に仕える儒臣。藩主・島津斉彬からも信頼されていました。

若いころの友厚は、斉彬からからも才能を高く評価されていました。

14歳のとき、父・秀尭が藩主・島津斉彬から世界地図の模写を命じられました。友厚は父に代わって地図を模写。2枚作って一枚を斉彬に献上し、一枚を自分の部屋に貼っていました。という逸話が伝わっていますが。

この地図は父・秀尭が兄・友健に模写させたものだそうです。

でも五代家には友厚の子供の頃からこの地図があり、若い頃の友厚はこの世界地図を見て世界に目を向けていたのでしょう。

安政元年(1854年)。ペリーが浦賀にやってきました。

安政2年(1855年)。藩の郡方書役助(当時の農政を司る役所の書記官の補助)になりました。

安政4年(1857年)。長崎海軍伝習所に派遣されました。幕府がオランダの海軍士官を招いて作った学校で、各地の藩からエリートが集められました。友厚は航海、砲術、測量、数学等を学びました。このとき集まった人々の中には勝麟太郎、榎本武揚など幕末から明治に影響を与えた人物もいました。

友厚は途中、帰国したり各地を旅したりしながら11年間、長崎で暮らしました。各地からやってきた志士との交流が友厚の考えに影響を与えました。

イギリス人商品トーマス・グラバーとも交流を深めました。

文久2年(1862年)。五代は薩摩藩の御船奉行副役になりました。グラバーとともに上海に渡り、薩摩藩の命令で船の購入しました。

4月。幕府の軍艦・千歳丸に乗り込み上海に行きました。このとき五代は正式な乗船許可が出なかったので水夫として乗り込んでいました。このとき千歳丸に乗っていた高杉晋作と出会って親しくなったといいます。

薩英戦争でイギリス軍の捕虜になる

文久3年7月(1863年)。薩英戦争が起こりました。五代は松木弘安、堀孝之とともに薩摩藩の軍艦に乗って鹿児島藩でイギリス軍を迎え撃ちましたが、捕虜になってしまいます。

五代の目的は和平のためだったと言われますが、薩摩藩の船がイギリス軍に捕獲されたことが砲撃戦のきっかけになってしまい薩摩に大きな被害が出てしまいます。

船が横浜にいるとき。通弁の清水卯三郎の協力で船を脱出しました。五代たちの行動が戦争になったという理由で幕府からは目をつけられていました。捕虜になったので薩摩でも評判が悪く、薩摩にも戻れません。しばらく関東で潜伏生活を続けていました。

元治元年(1884年)。五代たちはほとぼりが冷めたので長崎に向かいました。途中、三島の宿で出会った大久保利通には身の潔白を訴えました。その後、長崎で潜伏。薩摩藩士・野村盛秀のとりなしでようやく薩摩に戻ることができました。

薩摩に戻る直前には上申書を藩に提出。富国強兵の方法について意見書を出しました。

薩摩で商業貿易を担当

元治元年(1884年)。薩摩藩はイギリスに留学生の派遣を決定。寺島宗則・森有礼たちともに薩摩藩遣英使節団として英国に向かいました。五代はイギリスで紡績機械や兵器を購入。

ベルギーにも向かい実業家のモンブラン伯爵と貿易のための商社設立の契約を結びました。この計画は実現しませんでしたが、このときの経験や知識は五代が実業家として活動するときに役に立ちました。

慶応2年(1866年)。帰国した五代は御小納戸奉公格に昇進。薩摩藩の貿易を担当しました。

長州藩の桂小五郎や高杉晋作と協力して薩長共同の商社を設立しようと活動。薩長の仲介をしたのは坂本龍馬でした。薩長合弁の商社は実現しませんでしたが。五代は薩摩藩の船「開門丸」を使って米や武器を各藩に売りました。

坂本龍馬が借りていた「いろは丸」が紀州藩の軍艦と衝突して沈没したときには、五代が賠償交渉の調停役を務めました。

小松帯刀とともに長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設しました。当時としては大型のドックでした。

これらの活動を通して長州藩の井上馨、伊藤博文、土佐藩の後藤象二郎、岩崎弥太郎、佐賀藩の中牟田倉之助たちと交流しました。

慶応4年1月(1868年)に新政府の参与職外国事務掛になりました。外国官権判事、大阪府権判事を兼任。堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件など武士による外国人襲撃事件の事後処理を担当しました。諸外国と交渉し、謝罪や賠償問題を解決。その手腕を高く評価されました。

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明治時代

大阪の五代

明治元年7月(1868年)。大阪税関長になりました。五代と大阪の縁はここにはじまります。

大坂は江戸時代には年貢米の取引で賑わっていました。でも幕府がなくなり大阪での取引は激減。大名貸しの借金棒引きで大阪商人が打撃をうけました。その他様々な理由で賑わっていた大阪の商業は明治になって衰退しました。

さらに日本人の無知につけ込んだ外国人の不正行為や、鉄砲好きな外国人が街中で発砲するなどの事件もおきていました。五代はその取締りも担当。厳しすぎて伊藤博文からは手加減するようにも言われました。一方では五代は松島遊郭を設置して外国人をもてなしましたが。「五代が豪遊している」という噂が流れてしまいます。

貨幣鮮度の信用を高めるため、五代の提案で大阪に造幣寮(局)が造られました。

政府は主要都市に専門商社と為替会社の設立を決定。大阪に設立することになり、出身を求めましたが大阪商人がなかなか動こうとしません。五代は大阪商人たちをまとめるために奔走しました。

実業家五代

明治2年(1869年)。政府から横浜に転勤命令が出ました。一説には左遷ともいわれます。

五代は大阪を去りたくありません、大阪の商人も五代が大阪に残るのを希望してました。

五代は政府の役職を辞任。実業家としての活動をはじめました。

当時は様々な硬貨が出回り混乱していました。そこでまずは硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立しました。

鉱山業にも力をいれました。まずは天和銅山(奈良県吉野郡天川郷)を開発。その後も、半田銀山(福島県)などを開拓して「鉱山王」と呼ばれました。

他にも紡績業・製塩業・製藍業などの発展に尽力しました。

日本の活版印刷の創始者・本木昌造と協力して英和辞典を発行。

これらの事業はすべて五代単独ではなく、複数の人との共同で行いました。様々な人と交流して産業を発展させました。

大阪会議

五代友厚は薩摩時代から小松帯刀とは親しくしていました。小松亡き後、最も親しくしていたのは大久保利通です。

政府を去った五代ですが大久保都の交流は続いており、富国強兵・産業の発展などで大久保の相談相手になりました。

明治政府内では様々な意見が対立し、西郷隆盛、板垣退助、木戸孝允など政府を去るものも出ました。大隈重信も辞任しようとしていました。

政府の弱体化を食い止めたい大久保利通は代に相談。五代は大隈重信を説得、政府を去るのを思いとどまらせました。

明治8年(1875年)。大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが旅館「加賀伊」に集って意見の交換を行った「大阪会議」が行われます。こうして木戸たちが政府に復帰しました。

このとき五代は大久保に宿を提供、大久保の相談相手になりました。会議の後、五代に勅使を派遣が検討されたこともありましたが。五代は民間に残りました。五代は政府関係の出来事には表には出てきませんが、影では大久保の支えになっていました。

大阪商法会議所設立

明治以降、低迷した大阪経済を復活させるため。様々な事業をてがけます。

明治9年(1876年) 堂島米商会所を設立。

明治11年(1878年)。大阪の財界関係者15名が集まり大阪商法会議所設立の嘆願書を大阪政府に提出しました。

大阪財界人、田中市兵衛(第四十二国立銀行)たちとともに 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)。

明治12年(1879年)。大阪商法会議所(大阪商工会議所)、大阪商業講習所(大阪市立大学)

明治14年(1881年)。大阪製銅(住友金属工業)、関西貿易社。

スキャンダルに巻き込まれる

明治14年(1881年)。五代は関西貿易社を設立。

海外貿易が目的ですが、まずは北海道開拓から始めることになりました。

それまで北海道開拓は政府が行っていましたが開拓使の廃止が決まっていました。

開拓使長官の黒田清隆は役人を退職させ民間企業のの北海社を設立して開拓を続けさせようとしました。

政府から北海社に土地や船舶、工場が格安で払い下げられました。このとき黒田は事業が赤字だったことを理由に、国が1400万円の費用をつぎ込んだものを、39万円の無利息30年ローンで払い下げることにしました。

ところが北海社には資本がないので関西貿易社が引き受けることになり。実際の運営は北海社の人々が行うことになりました。

すると大隈重信が「安すぎる」と反発。やがて世間にも知れ渡り猛烈な批判が起こりました。

五代友厚と黒田清隆は同じ薩摩出身。

新聞社や福沢諭吉など民間の論客もこぞって五代友厚と黒田清隆を攻撃しました。

結局政府は払い下げを中止しました。黒田は辞任に追い込まれます。

格安での払い下げについては大隈重信がメディアに情報を流したものといわれます。

この事件は政府内で対立していた大隈重信と伊藤博文の争いに発展。伊藤派が大熊派を追放する事件「明治十四年の政変」へと拡大しました。

実際には五代友厚の関西貿易社が払い下げをうけたのは岩内炭鉱と厚岸の山林だけ。殆どの払い下げ先は北海社でした。

批判にさらされた五代は弁明しようとしましたが、政府関係者の要請で断念しました。

五代は払い下げの一部を引き受けただけでしたが、首謀者のように批判にさらされることになりました。

当時は他にも政府の物件が格安で民間に払い下げられる例はありました。これほど大騒ぎになったものはありません。

政府内での対立に加え。明治維新後の関東人の薩摩勢力への反感や不満が溜まっている所におきた事件でした。関東の人々の不満のはけ口として生贄になってしまったのが五代だったのかも知れません。

その後の五代

この事件で「政商」と批判され黒い商人のように言われましたが。この事件の後も大阪での五代の事業への熱意と信頼はゆらぎませんでした。

明治15年(1882年)。共同運輸会社、神戸桟橋。

明治17年(1884年)。大阪商船(商船三井)。

阪堺鉄道(南海電気鉄道)など。

様々な組織や企業の設立に関わりました。

日頃から健康には自信があると言っていた五代でしたが。大酒飲みで大の喫煙家でした。明治13年(1880年)ごろから体調が悪くなっていました。

明治18年(1885年)体調を崩し療養に入ります。

9月。いよいよ危なくなると本籍を鹿児島から、大阪に戻しました。大阪人として最期を迎えたかったのでしょう。

9月25日。東京の療養先で死去。享年50歳(数え歳)

亡骸は東京から大阪に運ばれて葬儀が行われました。

多くの事業を行った五代でしたが。死後、100万円以上の負債と。借りた人から返済の先延ばしをもとめる手紙が残されました。

人には気前よく金を貸し、蓄財には関心が低かったようです。

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