望月千代女・忍者とも噂される歩き巫女の正体は?

歴史知識

望月千代(もちづき ちよ)は戦国時代の伝説的な女性。

千代女(ちよめ、ちよじょ)、千代女房ともいいます。

彼女は歩き巫女で信州・甲斐地方の歩き巫女を束ねる巫女頭をしていたといいます。

また俗説や創作作品の世界では「くノ一(忍者)」とされます。

そのため幾つかの創作作品ではくノ一(忍者)として登場します。

NHK大河ドラマ「どうする家康」でも古川琴音さん演じる「千代」が登場します。千代のモデルになったのが望月千代女です。

なぜ歩き巫女が忍者になってしまったのでしょうか?

望月千代女とはどんな人だったのか紹介します。

 

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望月千代女とは

 

名 前:望月千代(もちづき ちよ)?
通称:千代女房、千代女(ちよめ、ちよじょ)
生没年:不明
父・母:不明 
夫:望月盛時(もちづき もりとき)?
子:不明

千代は信州(長野県)の歩き巫女。

望月盛時の後妻だといいます。

千代女房、千代女と呼ばれることが多いです。

禰津村に伝わる文書によると。千代は信濃・甲斐で活動する歩き巫女でした。望月盛時の死後。武田信玄が千代に朱印状(免許)を与え甲斐と信濃の神子頭に任命したと言われます。

夫の死後。千代は禰津村(現在の長野県東御市)に移り住みました。それを機会に禰津村に多くの歩き巫女が暮らしすようになりました。

千代は禰津村を拠点に神女頭(巫女頭)として活動し、信濃・甲斐の歩き巫女を統括したといいます。

 

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夫の望月盛時と名門・望月氏

禰津村に伝わる文書によると。千代の夫とされる望月盛時は望月城(長野県佐久市)の城主。武田信玄に服属し第四次川中島の戦い(1561年)で戦死したとされます。享年58?

第四次川中島の戦いについては個々の武将の詳細はよくわかっていません。望月盛時が本当に合戦で死んだのかは不明です。

また、望月盛時を望月信雅(印月斎)親子と混同している記述もあり盛時の生涯はよくわかっていません。

こうなると千代が本当に望月盛時の妻だったのかすらも怪しいです。千代が禰津村に来たときには盛時は死亡してます。「私は名門・望月家の女房だった」と言えば泊もつきます。信玄が与えたとされる朱印状は現存していません。この手の書状は偽物が多いといわれます。

望月信雅(印月斎)親子について

望月盛時についてはよく分かっていませんが。同時代の望月城の城主は望月信雅親子です。

望月信雅は望月氏の庶流で望月宗家に仕えていました。

武田信玄の望月城攻撃(1543年)で望月宗家の望月昌頼と一族の多くが戦死しました。

その後、生き残った望月信雅は武田氏に抵抗していましたが、真田幸綱の仲介で武田信玄に服属しました。

子のない信雅は武田信繁の子・望月信頼(武田義勝)を養子に迎えました。第四次川中島の戦い直後に望月信頼が死亡。戦いの傷が元とも病死ともいわれます。

その後、義勝の弟・望月信永が望月家を相続しましたが長篠の戦い(1575年)で戦死。隠居していた望月信雅(印月斎)が復帰しました。

望月信頼・望月信永兄弟は地元では「望月様」と呼ばれ討ち死にやその祠とされるものの伝承が残ります。でも兄弟を混同している場合もあります。

望月盛時の経歴は望月信雅親子の経歴とかぶります。

望月氏が武田氏に従属後は望月信雅親子が望月城の城主となり望月領を治めたので川中島の戦い時に盛時が望月城主というのも疑わしいです。

望月氏はかつては海野氏・根津氏と共に「滋野三家」と呼ばれ、諏訪地方での名門でした。しかし望月氏は武田氏との戦いに敗れ没落。望月信雅が武田信玄に服属して望月氏が再興されました。しかし望月信雅の死後断絶します。

没落した名門がいつしか伝説となったようです。

 

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歩き巫女とは

千代は信濃を中心に活動する歩き巫女だったといいます。

でも巫女といっても特定の神社に所属している巫女さんではありません。歩き巫女は現代人の想像する神社の巫女とは違い、霊能者・民間呪術者のイメージに近いかもしれません。

諏訪地方の歩き巫女はもともとは諏訪信仰(諏訪神社)を広めるのが目的だったようです。やがて特定の神社に所属せず、禰津村に集まり霊能者として活動するようになりました。

各地を歩いて死者の霊を降ろして言葉を伝える「口寄せ」の他、祈祷などをしていました。

歩き巫女の元締め神事舞太夫の存在

歩き巫女は女性だけで各地を歩いているわけではありません。神事舞太夫という修験者の修行を積んだ男がいて歩き巫女たちを率いて各地を旅します。

貧しい村の娘が子供のころに神事舞太夫に引き取られ、歩き巫女としての訓練を受け。巫女になるといいます。降霊術や様々な呪術を身につけました。歩き巫女は芸能活動も行なっていました。もともと芸能と宗教は切っても切れない関係にありました。

旅先で踊ったり歌ったり話を聞かせたりして人を集めました。客商売なので太夫は美人を選んでスカウトしたようです。

貧しい家だと口減らしのために娘を太夫の養女として差し出すこともありました。収入もよかったようです。

とはいっても歩き巫女の生活には苦しいこともあり。中には歩き巫女が旅先で男と知り合って駆け落ち。なんて事もあったようです。

神事舞太夫は地域の神社仏閣を統括する寺社奉行の配下でした。それなりに顔が効くようです。神事舞太夫一行を迂闊に襲ったりすると襲った側がお尋ね者になってしまうようです。

似たような仕事をする人たちは信州だけでなく日本各地にいました。各地で様々な呼ばれ方をしていました。明治に入るとこのような業種は禁止されました。定住して占い・祈祷などを行う民間霊能者になった人もいるようです。イタコの祖先もそのような人たちです。

権威とのつながりを求める民間宗教者

こうした民間宗教者は社会的にはあまり地位の高い人ではありません。社会的には差別を受けることもありました。そのため権威とのつながりを主張して布教活動することもありました。日本各地に安倍晴明・弘法大師その他の有名人の名前が出てくる伝説があるのはそのためです。

千代女の場合も「名門望月氏の嫡流の妻」「武田信玄の免許」。という権威を利用しています。

千代女の存在が架空の可能性もあります。

江戸時代に禰津村を拠点に活動していた神事舞太夫や歩き巫女が「望月氏や武田信玄とつながりのある千代女」という権威を作り出して心の拠り所にしていたのかもしれませんし、布教活動に役立てていたのかもしれまん。

 

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千代女の忍者(くノ一)説は本当なの?

 

ひとりの想像がきっかけ

千代(千代女)の名前が知られるようになったのは。作家の稲垣史生が「千代女はくノ一だ」という仮説を発表したため。

稲垣史生氏の説によると。千代女は望月盛時の妻だった。望月盛時が川中島の戦いで戦死後。武田信玄が千代女に免状を発行した。それが巫女村が生まれたきっかけ。

ここまでは禰津村に残る文書の内容ですが。稲垣史生氏はここから想像を膨らませます。

巫女という世間的に地位の低い人物が望月盛時という武士の妻になるのは不自然。というわけで千代女は信玄に仕えた忍者。巫女村はくノ一の拠点。望月千代女はそこで諜報活動をしていた。

という説を発表。

この稲垣説が現在「千代女はくノ一だ」と言われる理由です。

稲垣史生は作家でテレビドラマの時代考証も行なっていましたが。歴史学者ではなく作家です。

千代女くノ一説の根拠も「社会的地位の低い女性が城主の妻なのはおかしい」という発想から生まれたもの。他に千代女がくノ一である歴史的な根拠はないです。

すでに書いたように千代女の経歴が嘘の可能性もありますし。千代女の存在そのものが架空の可能性もあります。

となると「身分の低い女性が武士の妻のはずがない」という前提が崩れてしまうわけで。そうなると千代女がくノ一である必要もなくなってしまいます。

作家の作った妄想なのです。

とはいえ、くノ一が存在したという話は面白いですしロマンがあります。

そうした興味本位な話題が先行して「千代女=くノ一説」が独り歩きしているようです。

情報提供する宗教関係者

神事舞太夫や歩き巫女は各地を歩いて旅していますから修験者の修行もしていたかもしれません。身を隠す方法やちょっとした護身術も身に着けていたかもしれません。歩き巫女は並の女性にはない能力をもっていたかもしれません。

各地を旅する性質上。宗教家のもとには情報が集まりやすいです。

役所から営業・通行許可をもらっている宗教家が役所に旅先で知った情報を報告していた可能性はあります。神事舞太夫は寺社奉行の配下ですから、通行許可や布教許可の免状を貰う代わりに旅先でお尋ね者の情報を得られれば役所に提供するくらいのことはしていたでしょう。

でも、

世の中が落ち着いだ時代に布教活動をして役所にお尋ね者の情報を提供していた。

のと。

物騒な戦国時代に忍者として活動していた。

のはまったく違います。

だから「千代女はくノ一だ」というのは作り話。

でも信濃の歩き巫女は権威ある存在としての千代女の存在を信じていたし、そういう人がいてほしいと思っていたのは事実なのでしょう。

 

ドラマ

どうする家康 NHK大河ドラマ、2023年 演:古川琴音 役名:千代

 

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