土岐頼純は美濃国(岐阜県)で守護の座を巡って土岐頼芸と争った人物。斎藤道三とも争いました。道三と争っている最中に若くして死亡します。
そのためあまり注目されることのなかった人物です。ところが「濃姫(帰蝶)と結婚していた」という説が出てきました。そこでにわかに注目を集めることになったのです。
土岐頼純とはどんな人だったのでしょうか。
土岐頼純 とは
土岐家の家紋
名 前:土岐頼純(とき よりずみ)
生 年:大永4年(1524年)
没 年:天文16年11月17日(1547年12月28日)
父:土岐頼武
母:朝倉貞景の女
正室:斎藤道三の娘(帰蝶?)
父は美濃国守護・土岐頼武(とき よりたけ)。
母は越前国守護・朝倉貞景の娘か妹。
父・土岐頼武は土岐頼芸と守護の座を巡って争っていました。
頼武は一時は守護の座にありました。
享禄3年(1530年)。しかし頼芸に地位を追われ、朝倉氏を頼って越前に逃亡。その後、朝倉氏の助けを借りて大桑城(岐阜県山県市)を本拠地にして対立を続けていました。このとき頼純も一緒に行動していたと思われます。
時期は不明ですが、父・頼武は病で死亡しました。
父のあとを継いで頼芸と対立
頼純は父の死亡後も大桑城で抵抗を続けていました。
ところが。
天文5年(1536年)。味方だった近江の六角定頼が頼芸に寝返ってしまいます。
さらに守護代・斎藤利茂も頼芸に寝返ってしまいます。頼純は苦しい立場におかれました。
天文8年(1539年)正月。頼芸と和睦しました。しかし和睦は形だけでその間も斎藤道三によって調略が進み味方を失っていきました。
天文10年(1541年)ごろ。道三は頼芸を追放。頼芸は尾張に逃げました。
天文12年(1543年)より後。道三により本拠地の大桑城が落ちました。頼純は母の実家・朝倉氏を頼って越前に逃げました。
叔父の土岐頼芸と共に道三と戦う
頼純と頼芸の共通の敵が道三になりました。二人は「土岐氏の守護返り咲き」を目標に協力することになりました。
天文13年(1544年)8月。
頼純を支援する越前の朝倉孝景。
頼芸を支援する尾張の織田信秀。
力を増している斎藤道三を警戒する両者の利害も一致。朝倉軍と織田軍が美濃に攻め込みました。
しかし斎藤道三は両軍の動きをつかんでいました。朝倉・織田軍は斎藤道三との戦いになりました。この戦いで朝倉・織田軍は敗退。頼純は朝倉孝景と共に越前に戻りました。
朝倉孝景と織田信秀もこのままではすませません。室町幕府に働きかけて和睦を実現しようとします。
また、道三も北と南の挟み撃ちになって苦戦したので和睦に応じたともいわれます。
道三と和睦、道三の娘と結婚
天文15年(1546年)。頼純・頼芸と道三は和睦しました。
頼純は大桑城に戻りました。
和議の条件は
頼芸が隠居して頼純が美濃国守護になること。
頼純と斎藤道三の娘が結婚すること。
だったといわれます。
戦には負けながらも朝倉・織田氏の外交力のおかげで守護になることができました。
このとき頼純に嫁いだ道三の娘は帰蝶(濃姫)ではないかという説があります。
もしそうだとすると、帰蝶は12歳。ありえない話ではありません。
天文16年(1547年)11月17日。頼純は急死しました。死因は不明です。享年24.
斎藤道三が暗殺したともいわれます。
頼純は討ち死にした?
また「美濃国諸旧記」などには。天文13年の戦いの後。
天文16年(1547年)8月。朝倉・織田は和睦したものの斎藤道三を信用できず、大桑城の頼純・頼芸をけしかけて。稲葉山城を攻めようとしました。ところが斎藤道三が先に大桑城を攻めたため頼純は討ち死にした。とされます。
いずれにしろ。大桑城にいて道三の娘を娶っていた頼純は、天文16年(1547年)のどこかで死亡したようです。死亡の原因を作ったのはおそらく道三なのでしょう。
帰蝶(濃姫)の結婚相手だったのか?
「頼純と結婚したのが帰蝶」説では帰蝶は斎藤家に戻り、そのあと織田信長と結婚することになります。
頼純が斎藤道三の娘と結婚したのは確かなのでしょう。問題は帰蝶の他に道三の娘がいたかどうかです。今のところ道三の娘は帰蝶しか確認されていません。可能性はあります。
土岐頼純は歴史上はあまり知られていない人物です。ところが、「信長より先に帰蝶(濃姫)と結婚していたかもしれない」ということでにわかに注目を集める人物になりました。
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