鳥居元忠・大軍相手に伏見城に散る

徳川葵

 

鳥居元忠は家康が若いころから従った家臣です。

家康とは歳も近く3歳しかはなれていません。人質時代を共にすごしたためか絶大な信頼を得ていました。

家康の重要な作戦や、重要な領地の守りのために配置されることが多かった武将です。

関ヶ原の戦いの直前に行われた伏見城を巡る戦いでは、
1800の兵で4万の大軍を相手に10日以上持ちこたえ、壮絶な最後を遂げました。
その働きは「三河武士の鑑」として賞賛されています。

 

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鳥居元忠の生い立ち

 

鳥居元忠は天文8年(1539年)三河国で生まれました。
父は鳥居元吉。松平家の家臣でした。

元忠は徳川家康より3歳年上。家康が今川家に人質に出されていたときも、家康に従っていました。

家康が今川家より独立したあとは、旗本となりました。

元亀元年(1570年)姉川の戦いに出陣。

元亀3年(1572年)、父・鳥居元吉が死去すると鳥居家を相続します。
同年12月の三方が原の戦いに出陣しますが、武田信玄相手に徳川軍は大敗。
弟・鳥居忠広は撤退する家康を助けるため殿を務めて討死しています。

天正3年(1575年)、長篠の戦いに出陣。馬防柵を築く役目を担いました。
天正9年(1581年)、高天神城の戦いに出陣。

天正10年(1582年)、武田家滅亡後に起きた戦いでは、北条軍1万の軍を2000の兵で撃退するなど活躍しました。この勝利の後、北条よりも徳川の方が有利だと周辺の旧武田家臣が徳川に寝返るものが続出するようになりました。

この戦いの後、甲斐国都留郡を与えられてます。はじめは岩殿城に入りましたが、谷村城に移ります。都留郡は小山田氏が支配していた土地でした。都留郡は北条氏の領地に接しており北条氏に対する守りのために配置されたと考えられます。

武田家滅亡後、武田家重臣・馬場春信には娘がいるとの情報が家康に届きました。武田家ゆかりの側室が欲しかった家康は、娘を元忠に探させます。元忠は娘を 探しましたが、自分の側室にしてしまい家康にはいなかったと報告しました。馬場の娘が、元忠のもとにいるとばれてしまいますが、家康は「抜け目のないやつ だ」と笑って許したといいます。
そのくらい元忠は家康から信頼が厚かったという事なのでしょう。

 

天正13年(1585年)、真田氏の上田城攻めに参戦。大久保忠世平岩親吉と共に7000の兵を率いましたが、敗退します。

天正18年(1585年)、小田原城攻めに出陣。
家康が関東に移動になると、下総国矢作城4万石の領主となりました。
常陸国佐竹氏や東北の大名に対する守りのために元忠が矢作に配置されたのだといわれます。

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関ヶ原の戦い

伏見城に残る

慶長5年(1600年)。家康は上杉景勝討伐のために軍を出すことを決めます。
元忠は伏見城の留守を任されました。

出陣の前に家康は伏見城を訪れ元忠と酒を交わします。家康は上杉との戦いのために大軍が必要なために、伏見城の守りに十分な兵は残せないことをわびました。

家康が軍を率いて大坂を離れれば、石田三成ら家康に反感を持つ諸大名が挙兵する可能性は高いと思われた時期です。
三成達が挙兵すれば畿内の徳川方の城は真っ先に狙われます。伏見城が狙われるのは当然の様に思われました。

それに対し元忠は、将来天下を取るためには兵は一人でも多いほうがいい。もし大坂方の兵がきたらこの城は無事ではすまないだろうから、この城に兵を残すことは無駄になる。一人でも多くの兵を連れて行って欲しい」といいました。家康はその言葉に感激し、元忠との別れを惜しんだといいます。

家康が上杉討伐に向かうと家康や元忠の予想したとおり。石田三成が家康に反感をもつ大名を集めて挙兵します。

 

伏見城に立て籠もる

7月18日。毛利輝元の名で伏見城を明け渡すように命令が出ましたが、元忠はこれを拒否。1800の兵で伏見城に立て籠もりました。
すると、宇喜田秀家ら西軍の4万の兵が伏見城に攻めてきました。

このとき家康の要請だとして島津義弘が1000の兵を連れて伏見城の援軍にきました。でも、元忠には連絡が行ってなかったため義弘を追い返してしまいました。結局、島津義弘は関ヶ原の戦いでは西軍についてしまいます。その一方で、三成と信仰のあった島津義弘は最初から家康に味方する気はなかったとも言われます。

途中、長塚正家が降伏の使者を送ってきましたが、元忠は使者を切って送り返し抵抗を続けました。最初から助かることは考えず討死する覚悟だったのです。

伏見城は豊臣秀吉が作った強固な城だったということもありますが元忠は13日もの間、西軍を相手に戦います。しかし8月1日。城内に乗り込んできた鈴木重朝と戦った末、鳥居元忠は討死。享年62。
伏見城は落城しました。

1800の兵で守っていた伏見城は本来なら数日で落ちても不思議ではありません。伏見城攻めに予想外の日数をかけさせたことで、その後の三成らの計画が遅れてしまいます。その間に家康は三成の挙兵を知り、三成らを打つための準備を進めていくことになります。

 

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血天井の伝説

このとき、多くの将兵が抵抗を続け、伏見城の床は血で染まったといいます。
家康は元忠ら将兵の忠義を称えました。伏見城を守って戦った将兵の血が染み付いた畳を江戸城の伏見櫓に使いました。血の染み付いた床板は、京都の養源院、宝泉院、正伝寺、源光庵、興聖寺の天井に使われ。「血天井」と呼ばれています。

 

鳥居家はその後、嫡男の忠政が継ぎ磐城平藩10万石となりました。
さらには山形24万石となります。家康は元忠の忠義に報いるため鳥居家を手厚く扱ったのです。

 

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