大久保忠世とはどんな人

大久保忠世は古くから徳川家康に使える家臣。
徳川十六神将のひとりにあげられます。

上田城での戦いでは、大敗してしまいましたが。
それまでの戦いでは数々の功績をあげてきた武将でした。

大久保忠世はどんな人だったのでしょうか。

大久保忠世の生い立ち

大久保忠世は、天文元年(1532年)三河の国。松平家家臣・大久保忠員の長男として生まれます。弟には武勇に優れ、駿河沼津藩主となった忠佐。天下のご意見番・大久保彦左衛門として有名な旗本の大久保忠教がいます。

大久保家は、徳川家康の祖父の代から使える家柄でした。

天文15年(1546年)15歳で初陣を飾りました。

(1555年)。今川義元の蟹江城攻めに松平勢の一員として参加。手柄をたてました。

永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、本多正信ら家康(松平元康)の家臣の中にも一揆に加わるものが出る中で、父・忠員、弟・忠佐と共に家康に従い一揆の鎮圧に功績をあげます。

この一揆でいったんは本多正信が徳川家を去ってしまいますが、忠世のとりなしによって徳川家に復帰しました。
忠世は無骨ものと思われがちですが、正信など一揆に参加した旧家臣を徳川家に復帰させるなど政治面でも手腕を発揮しました。

元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いでは徳川軍は武田信玄に一方的に負けましたが、その夜。家康の命令で大久保忠世は天野康景らと共に野営中の武田軍を奇襲して武田軍に損害を与えました(犀ヶ崖の戦い)。江戸幕府の作成した資料では大勝した事になっていますが、少なくとも互角の戦いは行って一矢を報いることができたようです。

天正3年(1575年)の長篠の戦いには、弟の忠佐とともに参戦して活躍。

信長からも「家康はよい家来をもった」と賞賛されました。このとき、家康から褒美としてほら貝を賜りました。ほら貝は「長篠」と命名され、大久保家の家宝となります。

二俣城(静岡県浜松市)の城主となり、武田方との戦に備え城の守りを強化します。武田方の軍がたびたび攻撃をかけてきましたが、防ぎきりました。

天正10年(1582年)本能寺の変後。家康が甲斐、信濃を領地にすると、信州奉行に任命されます。小諸城(長野県小緒市)に入り依田康国の後見人となります。

天正13年(1585年)。上杉に寝返った真田昌幸を討つために、上田城攻めが行われました(第一次上田合戦・神川合戦)。忠世は鳥居元忠平岩親吉、依田康国らと共に参戦。
閏8月2日の上田城責めでは敗退。その後は丸子城を攻めますがこう着状態になります。上杉の増援が来るという情報などもあり、28日には上田から撤退します。その後も、忠世は小諸城に留まり真田軍との小競り合いを行ってます。

このとき忠世は54歳。以後、戦場で戦ったという記録は見当たりません。

天正18年(1590年)、北条氏滅亡後は小田原城の城主となります。

月に7日は食事をせずにその分お金をためていたといわれます。

文禄3年(1594年)死去、享年63。