和田 義盛・北条義時の謀略で滅んだ鎌倉の最強御家人

鎌倉時代

和田 義盛(わた よしもり)は鎌倉時代の武将です。

源頼家の挙兵に合流。鎌倉幕府を支える有力な御家人となりました。

弓矢の名人で、矢を遠くまで飛ばすことでは坂東武士団の中でもトップクラスの腕前でした。

侍所別当として武士団のトップに立つ存在でした。でも情に流されやすいタイプの和田義盛は立場を忘れてつい武士たちに共感してしまうところがありました。

源頼朝の死後、幕府内で権力争いが起こると北条に味方していましたが。

最後は北条義時と対立。将軍・源実朝を味方にした北条氏に敗れてしまいます。

和田 義盛とはどんな人だったのでしょうか。

 

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和田 義盛 とは

 

名 前:和田 義盛(わだ よしもり)
生 年:久安3年(1147年)
没 年:建暦3年5月3日(1213年5月24日)
父:杉本義宗
母:大庭景継の娘
子:常盛、義氏、朝比奈義秀、義直、義重、義信、秀盛、杉浦義国

 

久安3年(1147年)。和田 義盛(わだ よしもり)が誕生。
父は杉本義宗。
祖父は三浦義明。

和田氏は坂東八平氏(関東に移り住んだ平氏)・三浦氏の一族。

相模国三浦郡和田あるいは安房国和田御厨に移り住んだので、和田氏を名のるようになりました。

源頼朝の挙兵に参加

治承4年(1180年)8月22日。源頼朝が挙兵すると、三浦氏も挙兵。源頼朝に味方しました。和田義盛と弟の小次郎義茂も三浦勢とともに参加しました。

ところが源頼朝は大庭景親に敗北。三浦・和田勢は間に合わずに撤退を始めます。撤退の途中で鎌倉由比ヶ浜で畠山重忠の軍勢と出会って戦いになりました。

26日、畠山重忠は三浦氏の本拠・衣笠城を襲撃。和田義盛は西の木戸口を守りました。でもこの戦いで祖父・三浦義明が戦死しました。(衣笠城合戦)

その後、和田義盛と三浦一族は北条時政たちとと合流。29日には安房平北郡猟島で源頼朝と合流しました。

その後、源頼朝は各地の武士を仲間にするため使者を派遣。和田義盛は上総広常の元に行きました。

その後、富士川の戦いで平氏を破ると頼朝は関東の制圧を優先。

11月。和田義盛と上総広常は頼朝の命令で常陸国の佐竹氏を討ち、佐竹秀義を生け捕りにしました。

頼朝は関東を統治するための組織を作り。義盛は「侍所別当」になりました。義盛は以前からこの役職に尽きたいと希望していました。

源平合戦(治承寿永の乱)

源頼朝は後白河上皇の求めに応じて木曽義仲討伐軍を派遣。そして平家方と戦います。

和田義盛は、木曽義仲や一の谷の戦いに参戦したという記録はありません。

元暦元年(1184年)8月。源頼朝の弟・源範頼が平家追討のため派遣されると、和田義盛も軍勢に従軍。

山陽道から九州へに入って平家を包囲する作戦でした。和田義盛は源範頼の相談相手になりました。ところが兵糧が調達できず九州に渡る事もできず足止めを受けていました。やがて東国武士たちは領地に帰りたいと騒ぎ出すと、和田義盛は武士をまとめる立場でありながら一緒になって帰りたいと言いだします。結局、源範頼の説得で思いとどまりました。

 

1月26日。ようやく船を調達。和田義盛は北条義時、足利義兼たちとともに豊後国へ渡ったって平家方と戦い勝利しました。

その間に源義経が屋島の戦いで勝利。平家は長門国彦島で孤立します。

3月25日。壇ノ浦の戦いが行われました。和田義盛たち源範頼の軍は九州側の陸地に布陣。海戦を行う義経軍を弓矢で援護。得意の遠矢で平家方を攻撃しました。

この戦いは源氏方が勝利しました。

壇ノ浦の戦いは源義経の活躍ばかりが注目されますが、源範頼軍の援護がなければもっと苦戦していたでしょう。

 

奥州合戦

源頼朝と源義経の関係が悪化。義経は奥州藤原氏のもとに逃れます。

文治5年(1189年)。藤原秀衡の死後、源義経は藤原泰衡に殺害されました。義経の首は鎌倉に届けられ。和田義盛と梶原景時が首実検を行いました。

文治5年(1189年)7月。源頼朝は奥州藤原氏討伐の軍を派遣。和田義盛も出陣。藤原泰衡・国衡兄弟との戦いで活躍しました。

梶原景時との諍い

建久3年(1192年)。領地で身内に不幸があったので和田義盛は一旦領地に帰ることになりました。このとき侍所別当職を梶原景時と交代。

「吾妻鏡」では、梶原景時が「一日だけでも」と義盛に頼みこんでそのまま返さなかったとありますが。当事者同士で勝手に役職は変えられませんし。源頼朝は何らかの意図があってそのまま梶原景時に任せたのでしょう。和田義盛は情に流されやすいところがあるので、冷静な景時の方がよいと思ったのかもしれません。

侍所の運営を巡って意見の違いもあったかもしれませんし。この件で和田義盛が梶原景時を恨んだのはありそうなことです。

 

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源頼家の時代

建久10年(1199年)正月に頼朝が死去。源頼家が2代将軍になりました。源頼家の独裁を防ぐため有力な御家人十三人を宿老に選んで。彼らの話し合いで政治が行われました。

梶原景時の変

御家人達は日頃から梶原景時に不満を持っていました。

10月。頼朝が死亡してまもまく。後ろ盾を失った梶原景時に語件の不満が爆発。御家人たちは、和田義盛、三浦義村たち66人が署名して弾劾状を作り提出しました。

梶原景時は失脚。正治2年(1200年)に討たれました。

景時が失脚したので、和田義盛は再び「侍所別当」になりました。

建仁3年(1203年)。源頼家が危篤になり、後継者を巡って北条氏と比企氏が対立。このときは和田義盛は豊穣に味方しました。(比企能員の変)。

9月5日。頼家は危篤から回復。頼家は我が子・一幡と舅の比企氏一族の滅亡を知って激怒。和田義盛と仁田忠常に「北条氏討伐を命令」ところが和田義盛は、北条時政に味方しました。

9月7日。仁田忠常は滅ぼされ。源頼家は将軍職を奪われ出家。その後暗殺されました。

3代将軍には源実朝がなりました。

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源実朝の時代

 

元久2年(1205年)6月。畠山重忠に謀反の疑いがかけられ、義時を総大将に討伐軍が差し向けられました。このとき和田義盛も討伐軍を率いました。

この戦いで畠山重忠とその一族は滅ぼされました。(畠山重忠の乱)。

その後、時政は失脚。義時が2代執権になりました。

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和田合戦

北条家に権力が集中する中。このころになっても北条に対抗できる力を持っていたのが和田氏でした。義時としては和田一族は鬱陶しい存在でしたし。反北条勢力にとっては和田義盛は最後の希望でした。

建暦3年(1213年)2月。泉親衡が北条義時を暗殺して源頼家の遺児を将軍に擁立しようと企てました。(泉親衡の乱)。

謀反は事前にばれました。ところがこの計画に義盛の子・義直、義重、甥の胤長が関わっていることがわかりました。

驚いた義盛は源実朝に子や甥の赦免を願い出てました。子は許されましたが、甥の胤長は張本人なので許されませんでした。和田一族は98人が将軍御所の南庭におしかけ直訴しましたが。北条義時はわざわざ和田胤長を縄で縛られて和田一門の前を連行しました。この扱いに和田一族は激怒。胤長は陸奥国に流罪になりました。

胤長の邸は没収されました。義盛は罪人の屋敷は一族に下げ渡される慣わしでだと抗議します。いったんは願いは聞き届けられましたが。すぐ後に北条義時のものになり、義時は別の御家人に与えてしまいます。

北条義時の挑発に、和田義盛はもう我慢できません。

義盛は横山党や反北条派を誘って挙兵を決意しました。

噂は将軍・源実朝のもとにも届きました。実朝は使者を義盛に送りましたが。「上様には恨みはありませんが、義時のあまりに傍若無人は許せない」と返答。

和田義盛は親戚の三浦氏義村を頼りにしました。三浦義村は義盛に味方すると約束しましたが、裏切って北条義時に通報しました。

5月2日。和田義盛は一族と共に挙兵。鎌倉の町中で激しい市街戦が行われました。一族の朝比奈義秀も勇敢に戦いました。

勇猛な和田一族は奮戦しましたが北条側の兵力が上回り、和田勢は苦戦しました。

翌実。横山党たち和田に援軍が到着。和田軍は勢いを盛り返しました。これに危機感をもった北条義時と大江広元は「将軍実朝」の御教書を作成して御家人たちに回覧させました。すると和田方から離脱するものが続出。

将軍・源実朝の命令を受けた幕府軍は大軍になり有利に戦いました。そして夕刻18時ごろまでには和田一族の多くが討たれました。息子の義直も討ち死。和田義盛は悲しんでいる所に江戸義範の軍が襲いかかり和田義盛は討ち取られました。享年67。

 

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