常に真田信繁に仕える矢沢三十郎頼康(やざわ さんじゅうろう よりやす)。
関ヶ原までは信繁に仕えることが多く、ドラマ「真田丸」でも登場する回数も多りそうですね。
ドラマでは信繁と同年代の武将みたいに見えます。
実は歳は離れてます。(というよりドラマ開始時点の信繁は年とりすぎかも)。
信繁演じる堺正人さんは1973年生まれ、矢沢三十郎頼康を演じる迫田孝也さんは1977年生まれ。役者さんの歳では逆転してますね。
矢沢三十郎頼康はどんな人?
天分22年(1553年)生まれ。真田信繁より17歳年上ということになります。
父・矢沢頼綱は真田幸隆(幸綱)の弟。真田昌幸にとっては叔父さんになります。
知略の幸隆に対し武勇の頼綱といってもいいくらい。
真田家臣の中で戦場で戦って一番強いのは頼綱じゃないか。
というくらい頼りになる武将です。
頼綱がどれだけすごい武将だったかはこちらをご覧下さい。
矢沢頼綱・沼田を守った最強の老武士
昌幸の代になっても頼綱は一番頼りになる武将として昌幸を支えます。
真田家筆頭家老のポジションにいました。
それだけ信頼が厚いので当然、昌幸の子・信幸や信繁には、頼綱の子・頼康を従わせました。
頼康も父・頼綱の血を受け継いた優秀な武将でした。次世代の真田家をサポートする存在として期待されていたんですね。
若いころは沼田城代をしていた父・矢沢頼綱のもとで働いていました。父の代わりに城代を勤めることもありました。
天正13年。領地の沼田のあつかいがもとで真田家は徳川家から離れて上杉家に従うことになりました。
天正13年(1585年)8月。信繁が上杉に人質として上杉におくられました。頼康は信繁に従って上杉に行きます。前もって6月には昌幸から数十人の家臣を与えられています。そのころから上杉に行くための準備をしていたのでしょう。
信繁は上杉勝頼から気に入られ破格の待遇を受けます。信濃国屋代に領地を与えられ家臣としての待遇を受けます。
とはいっても当時15歳(ドラマでは18歳説を採用)の信繁は領主としての役目はまだ十分こなせなかったかもしれません。
当時32歳だった頼康が奉行衆として信繁のサポートを行いました。発行する書類には信繁(当時の名前は弁丸)が署名をしていましたが、実質的には領主としての仕事は頼康がやっていたと思われます。
上杉景勝と新発田の戦にも参戦し、上杉方として戦い手柄をたてました。
第一次上田合戦
天正13年8月(1585年)。徳川家康は真田家を打つため、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らに約7000の兵を付けて出します。上田城は徳川家のお金と人で作った城なので、取り返そうとしたようです。
このとき矢沢頼康は上杉の援軍と共に真田領に戻ることになりました。上杉は6500の兵を出すことになってたという説もありますが、実際に出せるのはわずか800。でも、徳川軍は迫ってきます。待ってる余裕はありません。とりあえず残りは後から来ることにして、頼康は800の兵と共に出陣しました。
真田領に戻って来た頼康は矢沢家の城である矢沢城に立て籠もりました。昌幸が立て籠もる上田城からは約6kmはなれてます。
真田信幸も近くの砥石城に立て籠もりました。
閏8月2日。徳川軍の主力はは上田城に攻撃をかけます。矢沢城にも徳川方の依田源七郎が1500の兵で攻撃を仕掛けて来ました。でも頼康は上杉の援軍とともにこれを撃退します。
上田城では昌幸の戦術にはまって被害を出した徳川軍が撤退しはじめました。
すると真田信幸が城から出て追撃戦を始めます。
頼康も城を出て追激戦を開始。
頼康と信幸の部隊に追い立てられた徳川軍は神川を渡ろうとしますが、多くの者が溺死しました。
このとき、頼康は撤退する徳川家臣の大久保忠世を猛烈な勢いで追いかけたといいます。
後に真田信之と大久保忠世が会ったとき、上田合戦の様子をふりかえりました。
「殿(しんがり)の私を追いかけたのは、真田さまでしたか。あのときは大長刀を振りまわす音が迫って身もすくむ思いでした」といったといいます。
それに対し、信之は。
「いや、それは私ではなく矢沢但馬守(頼康)でしょう。私は追激戦は下手ですから」
と言ったといわれています。
真田家重臣として
その後、父・頼綱が隠居。頼康が矢沢家の家督を継ぎます。
信幸が沼田城主になると信幸の家臣となりました。
関ヶ原の戦いのとき、真田家が昌幸・信繁と信幸に分かれたときは、信幸側に残りました。
信幸の息子・信政を徳川家への人質として家康のもとに送り届ける役目を務めました。信之からも信頼されていたことが分かります。
関ヶ原の戦いのあとも信之(信幸から改名)に仕えます。
大坂の陣では、病気の信之に代わって出陣した真田信吉、信政を補佐しました。
出陣の彩には信之(小松姫という説もあり)から「何ごともくれぐれも気をつけるように」と頼まれたといいいます。
その後。真田家の重臣として仕えます。
寛永3年(1626年)亡くなりました。享年73。
その後も矢沢家は松代藩・筆頭家老の家柄として続きます。
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コメント
文也様。こんばんは。大変良く調べておりますね。私たち長野の地元の者より詳しいかもしれません。先日、高梨於北様の塚がある広山寺(上田市真田町)に行って、その近くに矢沢城址があったので登ってきました。正直、そんなに大きな城址でないと思い、あなどってましたが、実際はかなり大規模で真田本城跡と同規模ぐらいありビックリしてきました。真田の後に上田城主となった仙石氏が、矢沢城も管轄したようで、かなり堅固な造りだった事が伺えました。
コウイチ様。ありがとうございます。歴史が好きなのでつい調べてみたくなります。活字の知識だけなので実際にどういうものだったのか実感できていないんですね。僕も矢沢城は支城で大きな城ではないだろうと思ってました。本物の城跡に登って見られるとはうらやましい限りです。