徳川家康には様々な伝説があります。
「三寅(みとら)の福」という伝説もそのひとつ。
徳川家康は寅の年・寅の日・寅の刻に生まれた三寅の福をもつ人物と信じられていました。三寅とは3つの寅が揃うことです。
少なくとも家康の死後「神君家康公は三寅」と信じられ、神の生まれ変わりと言われていました。
大河ドラマ「どうする家康」では松嶋菜々子さん演じる家康の生母・於大の方が幼い家康(竹千代)を「寅の年・寅の日・寅の刻に生まれた」と語る場面があります。
確かに徳川家康は天文11年の寅年生まれというのは歴史の学説でも当たり前になっています。
ところが徳川家康が卯年生まれの可能性があることをご存知でしょうか?
三寅の福は家康が作った伝説かもしれないのです。
三寅の福とは?
家康は「三寅の福」をもっているといいます。
三寅(みとら)とは、生年・生まれ月・生まれ日・生まれた時間のいずれかに3つの寅がはいっていること。
現在は年の干支しか気にしません。時代劇を見ている人なら子の刻、丑の刻というのを知っているでしょう。真昼の12時を正午(午の刻の真ん中だから)というのはその名残りです。
でも江戸時代までは年・月・日・刻(時間)に干支が割り振られていました。だから寅の年以外にも、寅の月・寅の日なんてものもあるのです。
寅が3つ揃うのは非常に縁起がいいとされます。
3は古くから吉数です。
「寅」は「虎」に繋がる干支です。
毘沙門天は虎を眷属にしています。これは毘沙門天が寅の年・寅の月・寅の日に鞍馬山・鞍馬寺(京都市左京区鞍馬本町)に降臨したから。また信貴山・朝護孫子寺(奈良県生駒郡平群町)に毘沙門天が降臨したのも寅年。だから虎は毘沙門天の象徴なのです。
虎はそれだけでも勇ましさの象徴ですし。毘沙門天の眷属です。
毘沙門天は七福神にもはいっているように宝を守る神です。その眷属の虎も武勇以外に富に恵まれる。幸運が授かるという縁起の良いシンボルになっていました。
縁起のいい寅が3つ揃う三寅は、非常に縁起がいいものなのです。
徳川家康は寅(とら)年生まれ
徳川家康は寅の年・寅の日・寅の刻に生まれたとされます。だから「三寅」。
家康の生年月日は天文11年12月26日(1543年2月10日)とされます。
天文11年は壬寅(みずのえとら)で寅年。
というのも元和2年に家康が没した時に金地院崇伝の書いた記録に享年75と書かれているのでそこから遡れば天文11年生まれとなるのです。
これを根拠に現在では天文11年12月26日(1543年2月10日)の寅年生まれになっているのです。
徳川家康は卯(うさぎ)年?
ところが。徳川家康には卯年生まれではないかという疑惑があります。
というのも徳川家康が征夷大将軍に任命された年。無病息災と延命長寿を祈願するため願文を出しました。
そのとき徳川家康は自分で「六十一歳卯歳」と書きました。
徳川家康が征夷大将軍になったのは慶長5(1603)年です。
当時は数え年ですから。数え年で61なら満年齢で60歳。慶長5年から60年遡れば天文12年(1543年)生まれです。
家康が自分で書いたように天文12年は癸卯(みずのとう)、卯年です。
徳川家康の本当の生年は天文12年の卯年の可能性が高いのですね。
でも徳川家康が死んだときには寅年生まれになっていました。
家康は他人には寅年と言っても、神に願掛けする起請文には嘘を書けなかったのかもしれません。
もしかすると自らを神格化するために寅年生まれの伝説を作ったのかもしれません。そのために記録には偽った年齢を書かせたのかも。あるいは金地院崇伝と家康が作った伝説かもしれません。
少なくとも家康の死後。「家康は寅年生まれ」は常識になりました。現代の学説でも家康は天文11年生まれです。
家康は寅年?、卯年?はたしてどちらが本当なのでしょうか?
そういえば。予告を見ると大河ドラマ「どうする家康」では岡田准一さん演じる怖い織田信長が家康を兎呼ばわりしてますね。
ドラマの中でもなにかと家康と兎を結びつける演出があります。
とうやら「どうする家康では」「家康は卯年」の設定。
でも母の於大が偽っていることになっているのですね。
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