庵原朝昌と新野左馬之助の娘(桜)

丸に橘

 

庵原氏は今川家を支えた一族。その一族のひとり庵原朝昌に新野左馬之助の娘が嫁ぎました。左馬之助といえば幼いころの井伊直政(虎松)を守って奮闘した人物です。

その新野左馬之助の娘と、今川家臣・庵原朝昌は結婚しました。それだけではありません、庵原朝昌はのちに井伊直政に仕えることになります。井伊家とは縁の深い人物なのです。

庵原朝昌とその妻について紹介します。

 

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庵原朝昌とは

名 前:庵原朝昌(いはら ともまさ)
通称・官名:助右衛門(すけうえもん)
生 年:弘治2年(1556年)
没 年:寛永17年(1640年)

庵原氏は今川家に縁の深い一族

庵原氏は駿河国庵原を拠点に勢力を拡大した豪族でした。室町時代には今川家の支配下となり戦国時代には今川家の家臣として活躍します。一族には今川義元の師太原雪斎。客分として匿われていた武田信虎の謀反を阻止した庵原忠胤。最後まで今川家を守って武田信玄と戦った庵原将監などがいます。

桶狭間の戦いでは庵原一族の多くが犠牲となりました。

朝昌のおいたち

庵原朝昌は1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討たれる4年前に生まれました。

井伊直政より年上。井伊直親(1536年誕生?)や井伊直虎(次郎法師)よりも20歳近く若い人物です。

1568年。今川家が滅亡。13歳の朝昌は落ち延びて武田家に仕えました。

1582年。武田家が滅亡すると羽柴秀吉の家臣・戸田勝隆に仕えました。

その後、津田信成の仲介で井伊直政の家臣になり1500石を与えられます。ところが直政とはうまくいかずに井伊家を出ていってしまいます。各地を放浪した後、佐々成政の家臣になっていた水野勝成に仕えます。

1588年。佐々成政が領内で起きた一揆の責任を取らされ死亡。領地が没収されると、勝成か松平忠吉の仲介でふたたび井伊直政の家臣となりっました。2000石で召し抱えられたといいます。

1602年。井伊直政が死去。息子の井伊直継、直孝に仕えます。

大阪夏の陣では豊臣方の木村重成を討つ手柄をあげ、4000石となりました。

朝昌の子孫は彦根藩の次席家老を務める家柄となりました。今川家を支える一族だった庵原家の者が井伊家を支えるようになったとはなんとも皮肉なめぐり合わせです。

 

朝昌の妻は新野左馬之助の娘

庵原朝昌の妻は、新野左馬之助親矩の娘でした。親矩には3人の娘がいました。そのうちの1人だといいます。

大河ドラマ「おんな城主直虎」では新野三姉妹の3女・桜という名前で登場します。

今川家が駿河国を失ったのは1568年。そのころには朝昌はまだ13歳でした。左馬之助の娘と結婚したとすればかなり若いころだった事になります。

家臣や領主をつなぎとめるための政略結婚だったので若すぎる結婚もあったかもしれません。

一方の新野左馬之助は井伊直虎(次郎法師)の母の兄。朝昌は井伊直政とほぼ同世代。朝昌にとっては左馬之助は祖父の世代になります。その娘との結婚ということは。新野左馬之助の娘がかなり遅い時期に産まれた女性だったのでしょうね。だからドラマでも末っ子の桜が結婚することになっているのですね。

今川家滅亡後、庵原朝昌は各地を転々とします。桜も朝昌とともに苦労することになりそうです。

朝昌は一度は井伊直政に仕えたものの、直政と喧嘩して出ていってしまいます。でもまた戻ってきます。様々な人の助けがあったとはいえ、妻が井伊家と縁の深い人物だったというのも影響しているかもしれませんね。

ドラマで描かれることはないでしょうが、桜が井伊家に戻ってきたときには直虎は亡くなったあとなのです。

 

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