太源雪斎(崇孚)・今川義元を大大名に押し上げた黒衣の宰相

今川

太源雪斎(崇孚)は今川家の軍師です。幼いころから今川義元を教育し、義元が今川家を継いだ後は補佐して政治・軍事に大活躍しました。僧侶でありながら、軍を率いて出陣しました。戦場でも功績をあげ、黒衣の宰相とも呼ばれます。今川家が義元の代で大きな勢力になったのも雪斎の功績があったからかもしれません。

太源雪斎とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 雪斎禅師・太原雪斎(崇孚)とは

 

名 前:崇孚(そうふ・すうふ)
法号:太原雪斎(たいげんせっさい)、九英承菊(きゅうえいしょうぎく)
生 年:明応5年(1496年)
没 年:弘治元年閏10月10日(1555年)
父:庵原政盛
母:興津正信の娘

実家の庵原家(いはら)は駿河国庵原(静岡県静岡市清水区)を治める国人領主。父・庵原政盛は今川家の譜代の家臣でした。

崇孚は14歳で善徳院(現在の臨在寺・静岡県静岡市葵区)に入り禅僧になりました。その後、京都五山(有力な五つの禅寺)の建仁寺で修行をしていました。建仁寺で常庵龍崇という高僧の弟子になります。常庵龍崇から九英承菊(きゅうえいしょうぎく)という名を授かったっといわれます。

崇孚は20代のころにはその有能ぶりが知られるようになっていました。

今川氏親は「家臣の庵原政盛の息子が京で修行して大変有能らしい」との話を聞きつけます。そこで氏親は崇孚に息子の芳菊丸(今川義元)の教育を任せようと思いました。氏親は京に使いを送りますが、崇孚は一度は断りました。しかし2度目の使者がきて引き受けっということです。

大永2年(1522)ごろ。27歳の雪斎は善徳寺(現在の臨在寺・静岡県静岡市葵区)に招かれ、当時4歳の芳菊丸の教育を担当することになりました。

享禄3年(1530)。芳菊丸は出家して承芳(しょうほう)と名乗ります。その後、雪斎と承芳は2度、京に行って建仁寺や妙心寺で修行を続けます。承芳は京で栴岳(せんがく)の名をもらい、栴岳承芳と名乗ります。九英承菊はこのころ太原雪斎と名乗るようになったといわれます。

天文5年(1536)。雪斎と栴岳承芳は、妙心寺での修行を終えて善徳寺に戻っていました。そんなとき、今川家を継いでいた氏輝(義元の長兄)が亡くなります。氏輝には子がなく、次兄の彦五郎もなくなりました。

 

花倉の乱を制して義元を今川の後継者にする

寿桂尼は息子で五男の栴岳承芳をお呼び戻して今川家の跡継ぎにしようと考えました。ところが、それに反対する福島氏らが三男で福島氏の娘が生んだ玄広恵探を担ぎ出して後継者争いが起こりました。

雪斎は栴岳承芳を今川家の後継者にすべく多数派工作を行います。庵原氏のほか、瀬名、岡部ら家臣の同意を取り付け玄広恵探を追い詰めました。恵探派は兵を起こして今川館を責めてきましたが追い返します。恵探は花倉館に立てこもりました。雪斎と栴岳承芳は花蔵館を攻め落とします。恵探は普門寺ににげこみ自害しました。

栴岳承芳は義元と名乗り、今川家を継ぎました。

 

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義元が今川家当主になったあとの雪斎

武田と同盟するが北条と敵対

雪斎は今川家の当主となった義元を補佐しました。内政、外交、軍事の多くにかかわっています。

天文6年(1537)。義元は武田信虎と同盟を結びました。このとき交渉にあたったのは雪斎です。信虎の娘を、義元の正妻にすることでまとまりました。また、信虎の息子・晴信の正妻に三条公頼の娘(三条の方)を斡旋します。今川家は京の公家とも付き合いがあり、三条家とも縁戚にあたります。

ところが、この同盟のあと北条氏綱が兵を出して東駿河を占領してしまいました。河東の乱といいます。花倉の乱の影響で家中の混乱が立ち直っていない時期でもあり、今川軍は北条を食い止めることができませんでした。北条氏綱は花倉の乱では兵を出して義元に協力しました。氏綱と敵対している信虎と同盟を結ぶことは氏綱を怒らせる結果になったといわれます。

雪斎や義元としても氏綱が怒ることは予想したとは思いますが。なぜ、信虎と同盟を結んだかについては諸説あります。北条氏綱のおかげで当主になれた、ということになれば義元は北条に強い態度がとりづらくなります。北条をけん制するためだというのがひとつ。

花倉の乱のときの北条の軍事行動が予想以上に大がかりだったので雪斎と義元は危機感を持ったという説。北条氏綱は、父の伊勢盛時(北条早雲)がかつて領地にしていた東駿河を北条の領地にしたいという野心があったから。その思惑に気づいた雪斎や義元が北条をけん制するためだったという説もあります。

ともかく、雪斎と義元は武田と同盟を結びました。これがのちの三国同盟のもとになったといえます。

今川家としては国内の立て直しを優先させるため、北条に対して真正面から軍事行動を起こすことは控えました。しかし雪斎は策を練ります。

天文14年(1535)。今川から見て北条の背後にいる山内上杉憲政に協力を求め、北条を挟み撃ちにします。武田晴信の援軍も得て、東駿河を取り戻すことに成功しました。

織田との戦いに自ら出陣

天文15年(1546)。混乱の続く西三河に尾張の織田信秀が攻めてきました。松平広忠の救援要請がありました。義元は広忠の息子・竹千代を人質に出す条件で援軍を送りました。このとき雪斎が大将となって出陣しました。

ところが、駿府に送られるはずだった竹千代が織田に送り届けられるという事件が起きます。三河田原城主で竹千代の護送を担当した戸田康光が今川を裏切ってしまったのです。

天文16年(1547)。雪斎は今川軍を率いて三河田原城を攻めました。田原城は落城。戸田康光は討ち死にします。

天文17年(1548)。織田信秀は岡崎をとるため、長男・信広を先方にたてて三河に攻めてきました。義元は松平の援護のため、1万の兵を出します。大将は雪斎でした。小豆坂で戦いとなり、織田軍を破ります。

ところがこの戦いの最中、松平広忠が家臣に殺されてしまいます。後継者の竹千代は織田の人質になったままです。

天文18年(1549)。雪斎は人質交換で竹千代を取り戻すことにしました。そのための人質が必要です。雪斎は織田信広の守る安祥城を攻めました。このとき、信広を生け捕りにするよう徹底します。そして安祥城を攻め落として織田信広を捕虜にしました。

信広と竹千代を好感して、竹千代を取り戻しました。織田軍は三河から駆逐され、事実上三河国が今川の支配下となります。

三国同盟

東駿河はとりもどしたものの、北条とは険悪な状態が続いていました。北条との

天文23年(1554)。今川、北条、武田の同盟が成立します。
いわゆる「甲駿相三国同盟」です。

すでに天文21年(1552)。今川義元の娘・嶺松院が武田信玄の息子・義信と結婚していました。天文22年(1553)には、武田信玄の娘・黄梅院が北条氏康の息子・氏康と結婚します。

そして、北条氏康の娘・早川院が今川義元の息子・氏真と結婚しました。
今川義元、北条氏康、武田信玄が雪斎が住職を務める善得寺に集まったとされます。この時行われた会談を「善得寺会談」と呼び、三国同盟を「善得寺同盟」ということもあります。しかし、戦国大名自らが集まることは考えにくく、作り話とされています。実際には雪斎が外交交渉を行ってまとめたようです。

弘治元年(1555)。閏10月10日、長慶寺でなくなります。享年60。

雪斎は、今川家の軍師として働き、義元を内政、外交、軍事の面から助けました。自身も軍を率いて戦に勝利するなど、武将としての能力にも優れていました。

その一方で、禅宗を広めることにも積極的でした。駿河国で臨済宗が広まったのも雪斎のおかげだとされています。

雪斎の死から5年後、今川義元は桶狭間の戦いで命を落とします。このとき雪斎が生きていれば今川家は滅亡しなかったといわれることがあります。雪斎ひとりの力で今川家の滅亡が回避できたかはわかりませんが、そのくらいインパクトの大きかった人物だという証なのでしょう。

 

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