笠置 シヅ子は戦前・戦後をとおして活躍した歌手。
戦前の「笠置シズ子」はスウィング・ジャズの女王として人気を集め。
戦時中は敵性歌手として当局から活動を制限され。
戦後は「東京ブギウギ」などのヒット作を連発してブギの女王と呼ばれました。
その後は女優「笠置シヅ子」として活動。大阪弁と明るいキャラクターで人気になりました。
でも戦前・戦後あれほど人気を誇った歌手にもかかわらず。いまではその名を知る人はあまりいません。知っている人でも「美空ひばりをいじめた人」、「大阪弁の面白いおばちゃん」くらいの認識です。「東京ブギウギ」はかろうじて知っているという人もいるかも知れません。でもそれを歌っていた笠置シズ子って誰?となる人もいるでしょう。
なぜ忘れられてしまったのでしょうか?
昭和の大スター笠置 シヅ子について紹介します。
笠置 シヅ子
笠置 シヅ子(かさぎ しづこ)は日本の歌手、女優。
生年:1914年(大正3年)8月25日
没年:1985年(昭和60年)3月30日
本名:亀井静子(かめい しずこ)。
芸名:三笠シズ子 → 笠置シズ子 → 笠置シヅ子
香川で生まれて大阪で育つ
1914年(大正3年)。香川県大川郡相生村(香川県東かがわ市引田町)で生まれました。
父は三谷陳平。母は谷口鳴尾。2人は結婚を反対されましたが、二人の間には子供が生まれました。最初の名前は「ミツエ」。
生まれてまもなく父が病死。母・谷口鳴尾は赤子のミツエを連れて実家に戻りました。
そのころ引田(香川県東かがわ市引田町)で工場を営む中島家当主の妹・亀田うめは結婚して大阪で暮らしていましたが。出産のために香川に帰省していました。乳の出が悪かった鳴尾は、うめに頼んでミツエに乳を与えてもらいます。その縁で、ミツエは亀田うめの養女になる話がまとまり。静子は大阪で暮らすことになりました。
ミツエは志津子(後に 静子と改名)名前を変え大阪で米屋を営む亀田夫妻の娘として育てられました。
亀田夫妻は米屋から銭湯屋に商売を変えました。
静子は幼いころから歌が大好き。銭湯の客に歌や踊りを披露して評判になっていました。
少女歌劇から歌手へ
小学校を卒業した静子は宝塚音楽歌劇学校を受験しますが、背が低く痩せ型だったため歌の稽古に耐えられないという理由で不合格になります。
落胆する静子でしたが、近所のおばはんが「道頓堀に宝塚みたいなものができた」と教えてくれたので「松竹楽劇部生徒養成所(後のOSK)」の事務所に駆け込むと、宝塚を不合格になった悔しさと歌や踊りへの情熱を訴え、採用されました。
静子は「三笠 静子」の芸名で娘役としてデビュー。
1933年(昭和8年)。劇団が「松竹少女歌劇団(SSK)」に改名。
「秋のおどり・女鳴神」に出演。松竹少女歌劇団の人気女優になりました。
1934年(昭和9年)。日本コロムビアから「恋のステップ」レコードデビューしました。
1935年(昭和10年)には「笠置 シズ子」に改名しました。
東京で服部良一と出会いスウィング・ジャズの女王になる
1937年(昭和12年)。東京の松竹楽劇団(SGD)に移籍。SGDは大阪時代から人気になっていた笠置シズ子に期待しました。
1938年(昭和13年)。作曲家・服部良一がSGDの副指揮者になりました。コロムビア専属作曲家の服部良一は、まだ若いですがすでに淡谷のり子「別れのブルース」で大ヒット曲を生み出し注目を集めていました。
服部良一が楽屋で見たシズ子の姿は小柄で冴えない女の子でした。ところがシズ子は舞台に上がると3センチ付けまつ毛と派手な踊りと歌で強烈なインパクトを残しました。指揮者の立場で見ていた服部はシズ子に圧倒され、すっかりシズ子に魅了されます。シズ子は服部から歌手としての指導を受け本格的なスウィング・ジャズ歌手として活動開始しまし。
スウィング・ジャズとはジャズのジャンルのひとつ。10人以上の大人数の楽団で演奏、テンポが早く、陽気で踊るのにピッタリな音楽です。
日本にもアメリカのスターのようなジャズ歌手が登場した!と話題になり。シズ子はSDG松竹楽劇団の旗揚げ公演から1年あまりで人気歌手になり、「スヰングの女王」と呼ばれました。
東宝への移籍問題
1939年4月(昭和14年)。東宝はシズ子を引き抜こうとしました。かつてSDGに所属して今は東宝に所属している益田貞信から誘われました。シズ子は病気療養中の養母のうめの治療費がかさみ、益田に恋していたこともあって高額の契約書にサインしてしまいました。
それを知った松竹の上層部は激怒。連れ戻されたシズ子は半ば監禁状態になり、服部良一が東宝と交渉してなんとかシズ子は松竹に残ることになりました。
この時期、芸能人の移籍トラブルが多発して問題になっていました。それだけ芸能界の競争も激しかったのでしょう。
1939年9月(昭和14年)。服部良一に誘われて日本コロムビア専属歌手になりました。服部から曲を提供され松竹の舞台で歌うようになります。
戦時中の笠置シズ子
戦時下体制で活動が制限される
しかし次第に戦争の気配が近づき贅沢は敵だとされる風潮が強まり。3センチまつ毛と派手な踊りのシズ子は当局から目をつけられるようになります。ジャズは「敵性音楽」とみなされ警察から呼び出されて「歌ってはいけないと」注意を受けることもありました。マイクの前で3尺(約120cm)四方ははみ出していけない。直立で歌うこと。などと注文をつけられました。
舞台で踊っていたのはシズ子だけではありませんがシズ子のダンスは派手で有名人だったので特に目を付けられていたようです。
1941年(昭和16年)。SGD松竹楽劇団が解散。その後は服部良一の援助を受けて「笠置シズ子とその楽団」を結成。しかし「敵性歌手」の烙印を押されたシズ子は東京の中心部で活動ができなくなり、地方巡業や内地の工場への慰問講演を行いました。ジャズが禁止になったので服部良一が新しい歌を作りそれを歌いました。
吉本穎助との出会い
1943年(昭和18年)。地方を巡業していたシズ子は名古屋で吉本穎助(よしもとえいすけ)と出会いました。吉本穎助は吉本興業の創業者吉本せいの次男。当時はまだ大学生でした。
シズ子のファンだった吉本穎助は頻繁にシズ子の家に来るようになり。シズ子は9歳年下の穎助を最初は弟のように思っていましたが、すぐに2人は相思相愛の関係になりました。シズ子と穎助は結婚を近い会いますが、穎助の母・せいが二人の結婚に反対しました。
1944年(昭和19年)。戦争が悪化するとマネージャーの中島がシズ子に無断で勝手に楽団を売約。楽団を失ったシズ子は吉本興業の助けを借りて活動を続けました。
1945年(昭和20年)5月。東京大空襲。京都で講演していたシズ子は無事でしたが東京の家や家財が焼かれて無一文になりました。同じように空襲で東京の家を失った穎助とともに知人の家を借りて暮らしました。
1945年(昭和20年)8月15日。終戦。
1945年(昭和20年)11月。シズ子は東京での芸能活動を再開。
有楽座で榎本健一(エノケン)との共演するなど忙しい日々が始まりました。
1946年(昭和21年)に妊娠していることがわかりましたが。吉本せいから結婚の同意は得られません。
出産のため引退を決意。
1947年(昭和22年)5月。結婚できないまま穎助が結核で亡くなってしまいます。
6月。娘の亀井エイ子が産まれました。
夫を失い子供を抱えたシズ子は途方にくれました。シズ子は子供のためにも落ち込ではいられないと芸能界復帰を決意するのでした。
ドラマ「ブギウギ」花田鈴子のモデル・笠置シズ子の生涯
東京ブギウギの大ヒット
夫を失い子供を抱えたシズ子は途方にくれました。シズ子は子供のためにも落ち込ではいられないと芸能界復帰を決意します。
戦争に負けて世の中が落ち込んでいた時代。服部良一は芸能界復帰を目指す笠置シズ子に心を動かされ、世の中を明るくするもの歌ってもらおうと曲を作りました。
1947年(昭和22年)9月。「東京ブギウギ」を大阪梅田劇場で初披露。NHKラジオでも歌が流れ、翌年にはレコードも発売。東京ブギウギは大ヒット。
笠木シズ子は威勢のいい歌声、ダイナミックで派手な踊りでブギを熱唱。戦前のスウィングの女王と言われていた元気な笠木シズ子が戻ってきました。
敗戦とその後の生活苦から暗く落ち込んでいた人々はシズ子の歌うブギを熱狂的に指示しました。
戦前・戦時中は敵性歌手と言われたシズ子ですが。皮肉にも日本がアメリカに敗れてGHQが占領する日本ではシズ子の歌や踊りを制限する者は誰もいません。
とはいえ。シズ子の歌と踊りはアメリカ仕込みではなく、日本あるいは大阪の庶民的エネルギーというかシズ子のキャラクターがあるからできるものです。作曲家の服部良一ですら、人々はブギを理解しているのではない。シズ子のパフォーマンスに酔っているだけだと戸惑うほどでした。でもそれが戦争で打ちひしがれた人々にはウケたのです。
音楽をよく知らない人にはそれが区別できません。そのためシズ子をGHQ占領下でアメリカの曲を歌う「敗戦歌手」と見当違いの批判をする人もいました。でもシズ子は何も変わっていません。曲が違うだけで戦前から行っていた自分の歌と踊りのスタイルを披露しているだけです。変わったのは周囲の日本人でした。
シズ子は「大阪ブギウギ」「買物ブギ」などヒット曲を連発していきます。その歌のほとんどを手掛けたのが服部良一でした。
ところが想像以上のブームに困惑したのが服部良一でした。ブギが何なのか世の中に理解されないまま広まり。ファンはシズ子の派手なパフォーマンスに熱狂しています。音楽家としての服部には割り切れないものが残りました。
弱い立場の女性たちに共感
戦後。生活に困った女性たちの中には娼婦になる人もいました。親を失った子どもの中には靴磨きなどをしてひとりで生きていかなくていはいけない人もいました。
そんな水商売の人たちは夫を失い幼子を育てながら懸命に歌い踊るシズ子に強く共感しました。「ラクチョウのお米」姐さんを中心に熱烈なファンクラブができました。
シズ子もそんな彼女たちの境遇に共感。彼女たちが会いたがっていると知ると、会う機会を作りました。そして彼女たちが社会復帰できるように厚生施設の建設の相談にものりました。
シズ子はスターでありながら戦争で犠牲なった立場の弱い人達に共感できる人でした。
喜劇王エノケンとの出会い
服部良一とともに笠木シズ子に大きな影響を与えた人物がいます。喜劇役者の榎本健一(エノケン)です。10歳以上年上の榎本健一はシズ子にとって芸の師匠のようなものでした。
笠木シズ子は戦後まもなく榎本健一と舞台で共演。その後も多くの舞台で共演しています。
シズ子は歌手です。歌劇は経験ありますが、喜劇は得意ではありません。だから芝居をやっても役者のようにうまくできないこともあります。でもシズ子は豊かな表情と大阪弁、旺盛なサービス精神と野性的なところがありました。
榎本健一はそれが面白いと高く評価しました。榎本健一はその良さを引き出すようにアドバイス。
シズ子は榎本健一との共演を通して喜劇役者としても成長していきます。
晩年。歌を歌わなくなったシズ子は役者としてテレビや舞台に出て面白いおばちゃんとして人気を集めます。榎本健一との出会いが役者としてのシズ子を成長させたのは間違いありません。世間ではエノケンと愛称で呼びますが、シズ子は生涯、榎本健一を「榎本先生」と呼んでいました。
美空ひばりの悪役になる笠置シズ子
「豆笠置」美空ひばりの登場
笠木シズ子がヒット曲を連発して大人気になっていたころ。ひとりの少女がデビューしました。美空ひばりです。
美空ひばりは笠木シズ子の歌と振り付けをコピー。抜群の歌唱力もあり、美空ひばりは「ベビー笠置」「豆笠置」と呼ばれて話題になりました。
1948年(昭和23年)。シズ子(34歳)は当時11歳の美空ひばりと出会いました。シズ子は自分以上に自分の歌を上手に歌うひばりをかわいがったといいます。
1949年(昭和23年)。美空ひばり側はシズ子のヒット曲「ヘイヘイブギー」の使用許可を求めましたが。笠木シズ子と服部良一は「ヘイヘイブギー」ではなく「東京ブギウギ」を許可しました。というのも「ヘイヘイブギー」は大映映画「舞台は廻る」の挿入歌でレコードが出て間もない頃でした。笠木シズ子側としても簡単には許可できない事情もあります。
ところが「東京ブギウギ」を練習していなかった美空ひばりは舞台で失敗して涙ぐんだと宣伝され。ひばり陣営は笠木シズ子の嫌がらせを受けたと主張してシズ子を悪役に仕立て上げました。
アメリカ講演の影響
1950年(昭和25年)。笠置シズ子と服部良一は6月にアメリカに渡り日系人慰問のための講演を行うことにしました。ところがそれを聞きつけた美空ひばり側は5月に渡米して講演を行おうと計画します。
服部良一のもとにアメリカの興行先から
「笠置シズ子が来る前に美空ひばりが来て同じ歌を歌ったら興行価値が低下するのでなんとかして欲しい」
と連絡が入りました。このとき笠置・服部側は美空ひばりのアメリカ興行を知ったようです。
服部良一は日本著作権協会をとおして美空ひばり側に服部作品を歌っても演奏してもはいけないと通知。
美空ひばりのマネージャー福島通人は通達を無視してひばりを渡米させ。興行を強行。アメリカでの興行はあまり客が入らず散々だったようですが「アメリカ帰り」という箔がついた美空ひばりは人気になりました。
笠置シズ子も予定通り4ヶ月のアメリカ講演を実施して帰国。
ところが福島通人は「笠置と服部にブギを歌うなと言われた」と新聞に発表。笠置シズ子は天才少女 美空ひばりをいじめる悪役にされてしまいます。
裏に元マネージャーの暗躍?
ひばり側がシズ子の計画を知ったのは山内義富の協力があったようです。山内義富は笠置シズ子のマネージャーで。シズ子はお金の管理をすべて山内義富にまかせていました。ところが山内義富は賭博とヒロポン(麻薬の一種)に手を出してシズ子の全て金を使い込んでしまい解雇されていました。手持ちの資金がなくなったシズ子はそれでも税金は払わないといけません(所得税は前年の所得で計算されるから)。シズ子が必死に働いたのは言うまでもありません。
山内義富はカネに困り、美空ひばりのマネージャー福島通人に頼り情報を漏らしたのでは?と言われますが今となってはそれを裏付ける証拠はありません。山内義富と福島通人は吉本興業時代からの顔見知りで接点はありました。
子供で金儲けを企む大人たち
美空ひばりは歌手デビューするのに持ち歌を与えられず、既に売れているスターのコピーで手っ取り早く稼いでしまおうという大人の金儲けの道具にされました。マネージャーの福島通人や美空ひばりの母・加藤喜美枝たちはそれがうまくいかなくなると笠置を悪役に仕立てて世間の同情を集めました。
もちろん、そんなことをしなくても美空ひばりの実力ならすぐにスターになったでしょう。しかし金蔓になるひばりに大人たちは群がりました。
後に加藤喜美枝の証言をもとに自叙伝(とされるもの)や竹中労が書いた「美空ひばり」という本(実際にはろくな取材をしておらず、ひばり信者が加藤喜美枝の証言をもとに書いた神話)が出版され。そのひばり神話の影響もあって「笠置シズ子=ひばりをいじめる悪役」のレッテルは定着するのでした。
笠置や服部は福島・加藤らに反論しませんでした。モラルや倫理観の欠落した福島通人・加藤喜美枝は正論の通じる相手ではありません。後に美空ひばりが人気歌手になると加藤喜美枝らはひばりの脅威になりそうな後輩歌手をバッシングします。福島・加藤らは笠置・服部に対しては被害者ぶりましたが、結局は自分たちが後輩いじめを行っていました。そういう人たちです。
それに特許や著作権といった知的財産権がマスコミやジャーナリストにも浸透しておらず。子供を働かせて大人が稼ぐことに多くの者が疑問を持たず、それを見て喜んでいる時代です。いい悪いの問題ではなく当時の日本はそういう時代でした。
そんな彼らを相手に無駄な労力を使うのをさけたのでしょう。それよりもシズ子にはもっと大きな問題がありました。
ブギの時代の終わり
GHQの占領時代が終わり。昭和20年代後半には笠置シズ子のブギブームは去っていました。その後も歌い続けましたがかつてのようなヒット作は出ません。美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみたち若手のスターが人気になっていました。服部良一も笠置シズ子に合うヒット曲を作れなくなっていました。
笠置シズ子のブギのインパクトはあまりにも大きすぎました。そして世間がブギに飽きた時。笠置シズ子・服部良一コンビの栄光の時代も終わります。
高度成長が始まる昭和30年代。「もはや戦後ではない」とよばれるころにはこのころからテレビの時代がやってきます。
女優「笠置シヅ子」として再スタート
1957年(昭和32年)。笠置シズ子は歌手を廃業、女優に専念すると宣言します。歳をとって運動量が落ちたシズ子は若い頃のようには踊れなくなっていました。シズ子の歌はダンスがつきもの。若さでは新しいスターには勝てません。別のスタイルの歌手として生き残る道はありましたし、服部良一もそうしてほしかったかもしれません。でもシズ子は踊れない自分は歌手ではないと考えていました。
シズ子はきっぱりと歌を辞めました。
そして芸名を「笠置シヅ子」に変えて女優として再スタートをきりました。
でも子供もいますし芸能人として活動は続けないといけません。そこで笠置シズ子は女優として再スタート。映画会社やテレビ局を訪れて新人女優のギャラで使って欲しいとお願いして回りました。
笠置シズ子はラジオ東京の連続ドラマ「あまだれ母さん」に出演。その後も、テレビドラマやCMに出演。ドラマではお母さん役として好評でした。ドラマ以外でも親しみやすいキャラクター性を活かしてTBS「家族そろって歌合戦」の審査員、CMなどに出演しました。
笠置シヅ子の最期
1981年(昭和56年)。乳癌がみつかり手術。
しかしその後、癌が再発して入院。
1985年(昭和60年)。卵巣癌のため東京都中野区の佼成病院で死去。享年70歳。
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