雄略天皇と東アジアの国々のできごと

雄略天皇は第21代天皇。

5世紀に実在した倭(やまと)の大王(おおきみ)です。
「宋書」の倭王武と同一人物とされています。

治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と名のり、それまでの大王を超えた天下を統治する大王という意識を持っていました。

万葉集でも最初の歌が雄略天皇のものとされていて古代の日本人にとっては特別な天皇と思われていたようです。

日本書紀は古い時代ほど実際の歴史よりも古めの年代に設定されています。でも日本書紀における雄略天皇の記録は海外の文献と照らし合わせても一致する部分が多く。雄略天皇の時代ごろから実際の年代どおり書かれていることがわかります。

国内では関東から九州までを支配下におき、吉備や葛城などヤマト政権を支えてきた有力豪族を粛清。大王のもとに権力を集めました。

古墳時代は海外への進出も目覚ましい時期です。雄略天皇も応神天皇以来の海外進出路線を引き継ぎ積極的な活動を行いました。

雄略天皇は古代の天皇の中でも特に記録が多いです。

そこでこの記事では対外的なものや外交関係の話題を中心に紹介します。

 

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雄略天皇の時代におきた出来事

 

雄略天皇の即位

「日本書紀」
安康3年(西暦456年)。安康天皇が崩御したのでその年の11月に大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)が即位。

 

百済から来た姫

「日本書紀」
雄略2年(458年)。百済から来た池津媛(いけつひめ)は雄略天皇の宮中に入る予定でしたが、石川楯(いしかわの たて)と夫婦になり。怒った雄略天皇は池津媛と石川楯を捕らえて処刑しました。

「日本書紀」では「百済新選」からの引用として
百済の蓋鹵王(がいろおう)が己巳年(455年)に即位。雄略天皇は百済に使者を派遣、美女を要求しました。蓋鹵王は慕尼(むに)夫人の娘・ 適稽女郎(ちゃくけいえはし)を送ったとあります。この適稽女郎が池津媛です。

 

新羅との戦い

「三国史記」
459年。倭人、兵船100隻で東岸を襲う。月城(新羅の王城。現在の韓国慶尚南道慶州市)を囲む。新羅側が撃退。

大量の舟と兵をもつので日本列島の勢力と思われますが。雄略天皇の命令を受けた軍なのかは不明。

 

百済の昆支王が日本に来る、武寧王が九州で生まれる

「日本書紀」
雄略5年(461年)。百済王の加須利君(かすりのきし、蓋鹵王)は弟の軍君(こにきし、後の昆支王)に日本に行くよう命令。すると軍君は王の女を娶りたいと言ったので蓋鹵王は弟に妾を与えました。ところがその女はすでに身ごもっていたので筑紫の加羅島(かからのしま。現在の佐賀県加唐島)で出産。その子は嶋君(せまきし)と名付けられました。軍君は船に母子を載せて国に送りかえしました。嶋君は後の武寧王(斯麻王)です。

「斯麻王(武寧王)墓碑」
享年62歳。癸卯年(523年)死亡とあるので逆算すると生年は462年。
武寧王は461~462年に生まれたようです。

「三国史記」では武寧王は東城王の子とされていますが、東城王とは同世代のはずなので昆支王か蓋鹵王の子が正しいようです。

 

雄略天皇の即位を知らされていない劉宋

「宋書」
大明6年(462年)。中国南朝の宋(以下、劉宋)の孝武帝 劉駿(りゅう・しゅん)は倭の世子だった興があとを継いだので安東将軍 倭王の称号を与えました。

倭王興は雄略天皇の兄・安康天皇と思われます。安康天皇は即位後まもなく劉宋に使節を送っていましたが。456年に死亡しています。

でも孝武帝は倭王興(安康天皇)がすでに死んでいるのを知らずに今頃になって倭王の承認を与えました。

安康天皇のあとを継いだ雄略天皇は劉宋に使節を送ってなかったのでしょう。

 

吉備の上道臣が新羅に内通

当時、倭と伽耶諸国は友好関係を保っていました。日本書紀ではこれらの集団を任那と呼んでいます。伽耶諸国としては南に勢力を拡大する新羅や百済に対抗するためにも倭との協力は欠かせません。当時の朝鮮半島南部には倭人の居住地域があり鉄や馬など様々な物を入手していました。倭としてもこの地域への影響力を失うわけにはいきません。

「日本書紀」
雄略6年(462年)。任那に派遣されていた吉備上道臣田狭(うえみちのおみ みたき)が新羅に内通しました。

上道臣田狭の妻・稚媛(わかひめ)の美しさを聞いた雄略天皇は上道臣田狭がいない間に自分の女御にしました。それを知った上道臣田狭が怒ったからです。

雄略天皇は吉備上道臣田狭の子・弟君と吉備海部値赤尾(あまのあたい あかお)に新羅を討つよう命令。しかし弟君は新羅の策略にかかり攻撃できずに百済側に撤退。上道臣田狭は弟君に使者を派遣して日本に戻るなと説得。弟君の妻・樟媛は夫の謀反を憎んで殺害。樟媛は海部値赤尾とともに帰国。このとき百済の才伎(職人)も一緒にやって来ました。

 

「三国史記」
462年。倭人が新羅の活開城を攻撃、1000人あまりを捕虜にして帰る。
463年。倭人が新羅の歃良(そうら)城(韓国慶尚南道慶州市)を攻撃、撤退。

歃良城は神功皇后記にある草羅城と同じ場所にあると考えられます。

このときの「倭人」は雄略天皇の命令で派遣された兵なのでしょう。しかし満足な結果は得られなかったようです。日本書紀ではその原因は吉備臣の内通のためとされています。上道臣の寝返りは妻を取られたためとわかりやすいストーリーになっていますが、いろいろと因縁があったのでしょう。

吉備の豪族は朝鮮半島との繋がりが深く、雄略天皇の思惑とは違う動きをしている者もいました。またこの前には日頃から雄略天皇に反感をもっていた吉備の下道臣が粛清される事件が起きていました。吉備には雄略天皇に不満を持つ勢力がいたようです。

 

劉宋に使者を派遣

「日本書紀」
雄略8年(464年)
呉に使者を派遣。古来、日本では中国を「呉・唐・支那」と呼びました。ここでいう呉は中国南朝の宋(劉宋)です。

このとき劉宋側は「興(安康天皇)が死んで弟の武(雄略天皇)があとを継いだ」「武は自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王を名乗っている」のを知ったのかも知れません。

 

新羅を助けて高句麗と戦う?

「日本書紀」
雄略8年(464年)
それまで新羅は高句麗の保護下にありましたが、高句麗が属国扱いするため新羅が反発。両国が対立。高句麗が新羅に出兵しました。新羅王は任那(金官加羅)王に救援を求め。任那王は日本府の将軍を派遣。新羅を助けたことになっています。

伽耶諸国のどれかが新羅を救援したのかもしれませんし。朝鮮半島南部に住んでいた倭人に武装した集団がいて、彼らが戦ったのかもしれません。

新羅に協力したのは雄略天皇の意志だったかは不明。

「三国史記」
このころ新羅と百済は同盟して南下する高句麗に対抗していました。
468年。高句麗の長寿王は高句麗・靺鞨の兵で新羅を攻撃しました。
雄略8年の内容はこのときの様子が間違って伝わったのかもしれません。

 

新羅攻めに失敗

「日本書紀」
雄略9年(465年)
雄略天皇は紀小弓宿禰(きの おゆみ のすくね)、蘇我韓子宿禰(そがの からこ のすくね)、大伴談連(おおともの かたり のむらじ)、小鹿火宿禰(おかひの すくね)に命じて新羅を攻めさせました。当初は優勢でしたが新羅軍の抵抗も激しく、総大将の紀小弓宿禰の病死後は倭軍内で仲間割れが起こり撤退しました。

年がずれますが「三国史記」”463年倭人が新羅の歃良城を攻撃、撤退”と同じ出来事を書いているのかもしれません。このころ新羅王は何度もやってくる倭軍の攻撃に備えで城を築かせています。

いずれにしろこのころは倭と新羅は何度か戦っています。お互いの正史には編纂時に記録として残っていたものや強調したいものが掲載され、正史に載らなかった(ボツになった)戦いもあったのかもしれません。

 

劉宋から使者が来る

「日本書紀」
雄略14年(470年)。呉(劉宋)から使者が来ました。
このとき使者とともに才伎(職人)、漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛・弟媛もやって来ました。劉宋は職人や機織りの女性を派遣。呉織は絹織物やそれを織る人。「呉服」の語源にもなります。絹織物は応神天皇の時代に伝わりましたが当時の日本ではまだ製造できる人が限られていたので職人の派遣を求めたのでしょう。

当然、劉宋の皇帝が職人を送るだけの理由で派遣するはずがありません。雄略8年(464年)に送った使節の返礼のはずです。

返礼が遅れたのは劉宋の国内事情のため。劉宋では463年から干ばつ・大飢饉がおきて餓死者が多数出ました。464年には孝武帝が死去。あとを継いだ前廃帝 劉子業は暴君だったので反乱が起きて廃位され、明帝 劉彧が即位しました。その後も国内での反乱や北魏との戦いもありました。そのため使節派遣が遅れていたのでしょう。その間に失われた記録もあったかもしれません。

 

呉から来た技術が和風文化の基礎

遣唐使以前の渡来文化は朝鮮半島から来たものばかりが強調されがちですが。古墳時代には中華王朝からも技術が入っています。この技術が日本(和風)文化の基礎になりました。日本書紀編纂者もそれは理解していたようで、たいして役に立っていない中華王朝との外交交渉は無視して技術導入の出来事を書いたのでしょう。

 

百済一時滅亡

「三国史記」
475年。高句麗の長寿王が百済を攻めて百済の首都・慰礼城が陥落。蓋鹵王、王妃や多くの王族が死亡しました。文周は新羅に救援を求めましたが間に合いませんでした。「百済本記」では文周は臣下の木刕満致(もくまんち)たちとともに南に逃れたとあります。百済はいったん滅亡。その後、文周王が熊津で即位しました。

「日本書紀」
雄略20年(475年)。高句王が大軍で百済を滅ぼしました。それを知った雄略天皇は久麻那利(こむなり、熊津のこと)を汶洲王(文周王)に与え国を復興させた。とあります。

さすがに雄略天皇が土地を与えたわけではないでしょうが、なんらかの支援はしたのでしょう。

 

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雄略天皇(倭王武)が劉宋に使者を派遣

百済の都が高句麗に滅ぼされた後。雄略天皇は劉宋に使節を派遣しました。

「宋書」
昇明2年(478年)。劉宋に倭王武(雄略天皇)が派遣した使者が到着。

「宋書」にある「倭王武」が雄略天皇です。

かつて倭は朝鮮半島で高句麗と戦い敗北していました。

南下を続ける高句麗は百済の都を落としました。朝鮮半島南部の鉄資源地が高句麗に奪われば日本列島に鉄が入って来なくなるかもしれません。危機感を強めた倭王武は書簡の中で高句麗の非道さを訴えています。そして皇帝の恩恵で強敵(高句麗)に勝つことができれば以前のように朝貢する。そのためには開府儀同三司(大将軍、高句麗と同じ爵位)が必要。と「大将軍」の位を要求しました。

逆に言うと「大将軍」にしてくれないならもう朝貢しない。ということです。事実上の最後通告です。

高句麗王は劉宋から「大将軍」の爵位が与えられていました。でも歴代の倭王に与えられていたのは格下の「将軍」でした。雄略天皇は高句麗王と同じ「大将軍」が欲しかったのです。

倭王武の要求に対して劉宋の順帝 は倭王武に使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王の位を与えます。

雄略天皇(倭王武)は念願の「大将軍」の称号を手にすることができました。

雄略天皇が劉宋に出した書簡のように本気で高句麗と戦うつもりだったかは不明です。目的は朝鮮半島南部の鉄産地を抑えること。このころは新羅が高句麗と対立しはじめていましたから。百済と新羅を高句麗の防波堤にして鉄資源地を守ろうとしたのかもしれません。しかし弱体化した百済単独では高句麗に立ち向かえませんから軍事援助は必要です。

ところが百済で内紛が起きてしまいます。

 

百済 東城王の即位、高句麗との戦い

「日本書紀」
雄略23年(479年)4月。百済の文斤王(三斤王)が死去したので人質として日本に来ていた昆支王(こにきし)の息子・末多に武器と筑紫の兵500を与え帰国させ。末多は東城王として即位。筑紫の安致臣、馬飼臣が高句麗軍と戦闘しました。

「三国史記」
479年。三斤王が死去。東城王が即位。

百済は熊津で再興後も混乱が続いていました。10代の三斤王が即位したものの、豪族の間で派閥争いがあり、力をもっていた解氏が失脚。三斤王も謎の急死しました。

雄略天皇は高句麗との戦いどころではなくなり、百済王室の立て直しが当面の課題になりました。

その結果、倭(やまと)に滞在中の昆支王の息子を次の百済王にすることになりました。

雄略天皇は自分たちと親しい者を国王にして百済を倭の影響下におきたい。少なくとも百済を友好的な国にしておきたいと思ったでしょう。

昆支王は当然、自分の息子を王にしたいでしょう。反解氏勢力は解氏の影響下にない者を王にして解氏派の力を弱め自分たちの権力を得たいという思惑があったのでしょう。

雄略天皇、昆支王、反解氏勢力の思惑が一致したようです。

東城王の即位後。百済に派遣した筑紫の兵が高句麗と交戦。勝利しました。高句麗が百済に攻めてきたので防衛したのでしょうか?それとも倭・百済が高句麗に戦いを挑んだのでしょうか?

このころ高句麗は百済や新羅を何度も攻めていました。「三国史記」では百済と新羅・伽倻が協力して高句麗を防いだことになっています。伽倻と書かれていますが、主力は倭から派遣された部隊や現地の倭人勢力だったかもしれません。

「三国史記」は高麗時代に新羅出身の者が編纂したものなので新羅に都合のいいように書かれています。もしかすると三国史記以上に倭から派遣された部隊の存在は大きかった可能性もあります。

 

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雄略天皇の最期

昇明3年(479年)4月。順帝は宰相の蕭道成に皇帝の座を奪われ劉宋は滅亡。蕭道成が「斉(蕭斉)」を建国。

雄略23年(479年)7月。雄略天皇は病気になり8月に崩御。

その子・清寧天皇が即位しました。しかし国内は混乱。雄略天皇の死と劉宋の滅亡によって倭王賛から武へと続いた劉宋への使節派遣も終わりました。

 

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独立した天下を目指した大王

雄略天皇の死後。使節は派遣されていません。顕宗天皇の時代には高句麗と直接交渉が始まります。でも中華王朝には使節は派遣していません。

雄略天皇までの時代で国内ではヤマトは強大な武力を持ち関東から九州までを支配下におきました。雄略天皇の時代ごろに「治天下大王」の称号が成立。それまでの王や大王とも違う権威を手にしました。

中華皇帝の権威はもう必要ない。同盟国の百済に加え対立相手だった高句麗とも国交が開かれました。鉄の産地を脅かすのは新羅ぐらいですが、新羅だけなら中華皇帝のお墨付きは不要。苦労して中華王朝に使節を派遣する必要はなくなりました。しかも百済・高句麗なら中華皇帝ほど気を使わなくてすみます。

そうして中華王朝への使節は途絶えます。

次の使節派遣は推古天皇の時代です。以後、日本の君主が自ら冊封を求めることは二度とありませんでした。遣隋使・遣唐使は称号は求めていませんし。外交交渉と技術や知識の導入のみ。武家政権がもらった日本国王の称号は貿易用の肩書です。

日本が中華世界から独立した価値観をもち、中華とは違う別の「天下」として歩む決断をしたのが雄略天皇の時代だったと言えるかもしれません。そのための「治天下大王」です。「治天下大王」は後に「天皇」という表現に替わります。

だから万葉集では最初に雄略天皇の歌を載せるなど特別な天皇として扱われているのかもしれません。

 

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