倭の五王と東アジアの国々(1) 倭五王以前から倭王讃(応神天皇)まで

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倭の五王は応神天皇から雄略天皇の時代だといわれています。ではその時代には具体的に何がおきていたのか知りたいと思ったので宋書の内容を日本書紀や好太王碑文、三国史記などと照らし合わせて年表形式にしてみました。日本書紀は年の表記がかなり水増しされています。そこで日本書紀の年にはこだわらずに他の資料と似た内容は同じ出来事を表現していると考えて並べてみました。

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倭の五王の時代と東アジアのできごと

以下、特に但し書きがない場合、○○天皇○○年という記事は日本書紀の内容です。

倭の五王以前

346年。百済の13代近肖古王が即位。(三国史記・百済本記)

364年。倭兵が大勢でやって来たが待ち伏せして破った。(三国史記・新羅本記)

369年。百済の世子・貴須(仇首)が倭王旨に七支刀を贈る。(七支刀銘文)
神功52年 百済王が使者を遣わし七支刀一口・七子鏡一面、および宝を奉った。(日本書紀)

375年。百済の近肖古王が死去。14代近仇首王が即位。(三国史記・百済本記)
神宮皇后55年。肖古王が死去。貴須王が即位した。(日本書紀)

解説:百済に肖古王の名を持つ王は二人存在。三国史記では新しい方には近を付け近肖古王と称します。近仇首王も同様。

384年。百済の近仇首王が死去。15代枕流王が即位した。(三国史記・百済本記)
神宮64年。貴須王が死去。枕流王が即位した。(日本書紀)

385年。百済の枕流王が死去。16代辰斯王が即位。
神宮65年。枕流王が死去。王子・阿花が若いので叔父の辰斯が位を奪って王になった。(日本書紀)

390年。倭王が新羅に使者を送り王子の美海(未斯欣)を人質とするように求めてきた。王、美海を倭に送る。(三国遺事)

解説:三国史記402年にも同様の記事があります。この時代の新羅の資料の正確性はあてにならないのかもしれません。

391年。高句麗の19代広開土王即位。(好太王碑)
391年。倭は海を超え百済・□□・新羅を破り臣民とする。(好太王碑)
仲哀9年9月。神功皇后の三韓征伐。(日本書紀)

392年。高句麗の19代広開土王即位。(三国史記・高句麗本記)
三国史記と好太王碑では即位年が違う。誤差の範囲ですが正しいのは好太王碑と思われます。

392年。高句麗の広開土王が4万の兵で百済を攻めた。関彌城ほか多くの城を高句麗が奪った。(好太王碑)

解説:七支刀を受け取った倭王旨が誰なのかは不明。日本書紀に従えば神功皇后になります。

応神天皇・倭王讃?

応神元年(390)。庚寅。(日本書紀)
解説:紀年を120年ずらすと西暦390年に相当。

392年。百済の辰斯王が死去。17代阿莘王が即位。(三国史記・百済本記)
応神3年 百済の辰斯王が日本の天皇に非礼なことをしたので紀角宿禰らを派遣、百済国は辰斯王を殺した。紀角宿禰らは阿花王(阿莘王)を即位させ帰ってきた。(日本書紀)。

解説:三国史記をみても辰斯王の死は謎が多い。日本書紀の内容はともかく応神天皇が広開土王や阿莘王と同じ時代の人物と考えられていたようです。

393年。倭人、新羅の首都・金城を囲む。独山に追い大いに破る。(三国史記・新羅本記)

393年。百済は1万の兵で高句麗に戦いをしかけるも兵糧が尽きて撤退。(三国史記)

394年。百済は再び高句麗を攻めるも敗退。(三国史記)

396年。好太王率いる高句麗軍が百済を攻撃。百済の阿莘王は高句麗に服従を誓う。(好太王碑)

応神7年(396年) 高麗人・百済人・任那人・新羅人等がやってきた。武内宿禰が韓人を率いて池を造った。(日本書紀)。
解説:朝鮮半島の戦乱によって多くの難民が日本にやって来た。その渡来人を使って土木工事をしていたことが分かります。土木工事の記事は仁徳天皇の時代にもあります。

397年。百済の阿莘王は倭国と通じる。太子(後の腆支王)は倭国で人質になった。
(三国史記・百済本記)
応神8年(397) 百済は領地を奪われたので王子・直支(後の腆支王)を遣わしてきた。先王のように好(よしみ)を通じたいと言ってきた。(日本書紀)
解説:日本書紀と三国史記の内容が年・内容まで一致します。

399年。百済は高句麗との盟約に背いて倭と通じた(ことを高句麗が知る)。新羅が倭国に攻め込まれ倭国の大軍が新羅に満ちていることを告げてきた。(好太王碑)

400年。高句麗の広開土太王は5万の兵で新羅を救援。倭は新羅の城に満ちていたが、高句麗軍が出動すると倭は敗走、任那加羅まで撤退したが降伏した。安羅(倭と通じる伽耶諸国のひとつ)が新羅の城を奪取した。(好太王碑)
神宮62年。新羅が朝貢しなかったので襲津彦を派遣して新羅を討った。と関連か?

解説:新羅本記には399年に倭国に攻め込まれたことは書かれていません。内容的には393年の「倭人、新羅の首都・金城を囲む」が該当するかもしれません。日本書紀では神宮皇后62年。新羅に襲津彦を派遣、の記事が該当するかもしれません。しかし高句麗と戦ったことは書かれていません。日本、高句麗、新羅でそれぞれ内容が違いますがこの時代に倭国と新羅・高句麗連合軍の大きな戦いがあったようです。

402年。新羅が倭国に奈勿王の子、未斯欣を人質として送った。堤上が王子を取り戻すため倭に亡命したふりをして潜入。未斯欣を助け出した。堤上は捕まり処刑された。(三国史記・新羅本記)
仲哀天皇9年。新羅の波沙王が微叱己知波珍干岐(未斯欣)を人質として出し、貢物を送ってきた。(日本書紀)

解説:新羅が倭に人質を送っているところをみると高句麗の助けで国は守ったものの依然として驚異として感じているようです。日本側の記録は前後している部分が多い。本格的に文字が伝わる前の出来事は混乱している部分もあるでしょう。

402年。百済の阿莘王は倭に使者を送り大珠を求めた。
403年。百済に倭国の使者が来たので厚くもてなした。
(三国史記・百済本記)

応神14年(403年)百済王が縫衣工女を奉った。弓月君が百済からやってきた。多くの人民を率いてやってきたが新羅のせいで加羅に足止めされていると訴えた。そこで葛城襲津彦を派遣した。しかし3年たっても帰ってこなかった。(日本書紀)

404年。倭が不法にも帯方界に侵入。広開土太王が自ら軍を率いて闘った。倭寇は壊滅した。(好太王碑)

解説:帯方界とは漢や魏が支配していた帯方郡。現在のソウル周辺との説が有力。帯方郡滅亡後は百済の領土になりましたが広開土王の遠征で高句麗の領土になっていました。402、403年の使者の往復は領土奪回を狙った高句麗攻めの相談のため?とすれば倭寇は百済と倭の連合軍と考えられます。倭寇とありますが現代人の考える海賊としての倭寇が活発になるのは蒙古襲来以降。寇は侵入者、領土に攻めてくる敵という意味です。

405年。倭兵が新羅の明活城を襲撃したが帰った。(三国史記・新羅本記) 

405年。百済の阿莘王が死去。次弟の訓解が政治を行い太子(腆支王)の帰国を待つことになったが末弟の碟礼が訓解を殺害。腆支は倭王に帰国を願い出で認められる。腆支は100人の倭の兵士に守られて帰国。碟礼が家臣に殺害され腆支王が即位した。(三国史記・百済本記)
倭王が百済の腆支王に夜明珠を贈った。腆支王は使者を厚くもてなした。(三国史記・百済本記)

応神16年(405年) 王仁が来た。同じ年、阿花王(阿莘王)が死去。天皇は直支王(腆支王)を帰国させた。(日本書紀)
解説:王仁は楽浪郡にいた中国人亡命者の子孫。阿莘王の死亡年、腆支王が日本から帰国したことも一致する。

応神16年(405年) 葛城襲津彦の救援のため平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に派遣。新羅の国境に臨んだ。新羅は降伏。平群木菟宿禰たちは弓月の民や襲津彦ともに帰ってきた。(日本書紀)。

407年3月。倭人が東辺を襲った。六月には南辺を襲った。(三国史記・新羅本記)

解説:日本側の記録では敵はすべて新羅。高句麗と戦ったとは書かれていません。高句麗や新羅と戦った倭兵の全てが大和の支持で動いていたとは限りません。九州の勢力が単独で戦った可能性もあります。いずれにしても倭兵は新羅相手には優位に戦えたものの、高句麗には敗退したようです。生き残った倭の将兵は難民とともに帰ってきました。敗北した戦いの記録は残さなかったのか、日本書紀には書かなかものと思われます。

このあとしばらく高句麗は北方の後燕、東扶余と戦い半島南部への介入はみられません。

412年。高句麗の広開土王が死去。(好太王碑)
413年。高句麗の広開土王が死去。20代長寿王が即位。(三国史記・高句麗本記)

413年 東普に高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が使者を派遣した。(晋書)

414年 長寿王が好太王碑を建造。(好太王碑)

415年。新羅が倭人と風島で戦い勝つ。(三国史記・新羅本記)
418年。人質になっていた新羅王弟未斯欣が倭国より逃げ帰る。(三国史記・新羅本記) 

420年。百済の腆支王が死去。久尓辛王が即位。(三国史記・百済本記)
応神25年(414年) 百済の直支王(腆支王)が死去。久爾辛王(久尓辛王)が即位。王が若かったので木満致が政治を行った。天皇は木満致の評判が悪いのを聞いて呼び出した。(日本書紀)
解説:腆支王の死去の記事は年数がずれています。

応神28年。高句麗の王が使いを送ってきた。(日本書紀)

解説:高句麗の広開土王の晩年から長寿王の時代の前半は北方の国々と激しく対立していた時期。高句麗としてもいつまでも南の国と戦争するわけにもいきません。そこで一旦、倭と和平を結び北方に戦力を集中したのかもしれません。

倭としてもこれ以上は高句麗と戦いたくはないはず。高句麗の支配地域には進軍しないと和平を結んだのかも?

421年 倭王讃が宋に使者を派遣。官位をもらう。(宋書)
425年 倭王讃 宋に使者を派遣して貢物を贈った。(宋書)
応神37年(426年)。阿知使主らを呉に遣わし縫工女を求めた。使者は高麗まで来たが呉までの道のりが分からなかったので高麗人に道案内してもらった。(日本書紀)

解説:阿知使主は宋書にある425年の使節と思われます。返礼の使者に機織りの工女が同行して来たようです。日本書紀を編纂した時代の人々にとって、もはや意味のない朝鮮半島南部の支配権よりも実益のある縫工女の方が重要だと考えたのかもしれません。

425年。新羅王の家臣・堤上は倭国に亡命のふりをして倭王を油断させ美海を帰国させた。怒った倭王は堤上を処刑した。(三国遺事)
解説:三国史記新羅本記402年に同じ内容の話があります。三国遺事では物語風にアレンジされています。三国遺事は説話集なので資料的価値は三国史記よりも低いです。

応神39年(428年)。百済の直支王が妹の新斉都媛を送ってきた。媛は7人の婦女を連れてきた。(日本書紀)
解説:応神天皇25年に直支王が死去と書いてます。年代か王の名前を間違ったのでしょうか?直支王の妹である新斉都媛が来たということでしょうか?本当に王の妹かどうかも不明。百済から高貴な身分と称する女性が来たのかもしれません。

431年。倭兵、新羅の東辺を襲撃、明活城を囲む。(三国史記・新羅本記)

讃が死んで弟の珍が即位した。(宋書)

430年。倭国王が宋に特産物を献上した。(宋書本記)
応神41年(430年)。応神天皇死去。この年、呉に使節として行っていた阿知使主が筑紫(九州北部)に到着。 

応神を倭王讃とした場合、少なくとも392~425年の間には在位していたことがわかります。

倭王讃は仁徳天皇という説をよく聞きますが、日本書紀や他国の歴史書をてらしあわせると一致するのは応神天皇の時代です。

他国との資料からわかる古墳時代の天皇の治世

倭の五王は日本では古墳時代の応神~雄略天皇の時代になるといわれます。しかし具体的には誰がどの年に生きていたのかはよく分かっていません。

日本書紀に百済王の没年や即位年がある場合。同じ百済王の三国史記の記事をみれば即位年や没年の西暦を割り出すことができます。その西暦と宋書を照らし合わせると、倭の五王がどの天皇になるのかおおよそはわかります。日本書紀の記事の順序が正しいとは限りませんがあるていどは年代を絞り込むことはできます。そうして他の倭の五王の時代も考えてみました。

その記事はこちらです。
倭の五王と東アジアの国々(2)倭王珍(仁徳天皇)から武(雄略天皇)まで

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